「長い20世紀」とDaF (W. Baba) [J]   作成日:2016/09/17
 DaFという学問領域は、いつから存在するのだろう。

 私は現在、ドイツ語教員養成・研修講座を受講させていただいている。毎回のワークショップはもちろんのこと、ワークショップ後にMoodle上で行う振り返りとそこから派生する議論は、私にとって大変有意義な勉強の場となっている。冒頭の疑問は、このMoodle上の議論から生じたものである。
 というのも、私は19/20世紀転換期ドイツの歴史を専門としている。この時代はしばしば、現代の起点とみなされるが、DaFの起点はどの時代に求められるのだろうか。今回のコラムでは、私自身の疑問に答える形でDaFの歴史についてお話ししたい。

 まず、19/20世紀転換期にドイツの大学で学んでいた留学生についてみてみよう。その数は、1880年には1129名(全学生数の5.2%)にすぎなかったのに対して、1913年には7088名(全学生数の10.7%)と急増していた。そのほとんどがヨーロッパやロシアからの留学生であったが、中でも一番多かったのがロシア出身の留学生で、オーストリア=ハンガリー、スイス、ブルガリア出身の留学生がそれに続いた。入学に際しては、ギムナジウムやリツェーウムの卒業資格と同等とみなされる資格に加え、当然ながらドイツ語の技能も必要とされたが、この時代にドイツの大学へやってきたヨーロッパやロシアからの留学生は概してドイツ語がよくできたという。というのも、彼らの出身国の中等教育機関ではドイツ語の授業が行われていた上に、ロシアでは、数学などの自然科学系科目の授業までもがドイツ語で行われる中等教育機関すらあったからである。ロシアや東欧では、ドイツ人の家庭教師を雇う貴族・市民階層の家庭も多く、そのような家庭では、母語よりもドイツ語の方が日常的に用いられていたともいわれている。

 とはいえ、留学生の急増を背景として、19/20世紀転換期以降、彼らの入学先の大学でも留学生向けのドイツ語の授業が行われるようになっていたことが、それぞれの大学に残されている講義要項から明らかになっている。パイオニア的存在だったのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ベルリン(現フンボルト大学。以下、ベルリン大学と記す)である。

 ベルリン大学が最初にこの科目を設置したのは1898年から99年にかけての冬学期で、科目名は「ドイツ語の理解ならびにドイツ語を書き言葉・話し言葉として用いる練習」であった。まもなくランデスクンデなどの授業も加わる。また、1911年からはベッティンガー外国人学校(Böttinger Studienhaus für Ausländer)も、留学生を対象とした授業を提供するようになった。ベッティンガー外国人学校とは、留学生を指導する民間の財団として、染料会社フリードリヒ・バイエル社の監査役会会長だったフォン・ベッティンガーが1908年にゲッティンゲンに創設したもので、1911年にはベルリンにその拠点を移していた。ベルリン大学やベッティンガー外国人学校でのコースを通じて、留学生はドイツ語やランデスクンデを学んだのである。
 
 第一次大戦中は留学生数が減少し、上記のコースも中断したものの、戦後まもなく再開する必要が生じた。留学生数が、第二帝政期ほどではなかったものの、ある程度の水準まで比較的迅速に回復したためである。中でも、戦後再び国際的名声を博する学問の中心地となっていたベルリンは、首都としての魅力もあいまって、多くの留学生を惹きつけた。既に1920年夏からエジプト出身の留学生向け特別コースが再開されていたが、コースの需要は高まり、1922年夏には16のコースが開催され、1364名が受講するようになっていた。戦前と比較すると、ドイツ語が堪能なヨーロッパやロシアからの留学生の割合が減少し、アジアやアメリカからの留学生が増加したこともコースの需要を高めることにつながった。

 このような状況下、プロイセン科学・芸術・教育省の支援の下、ベッティンガー外国人学校やベルリン大学などに設置されていたドイツ語コースを統合する形で1922年に創設されたのが、ベルリン大学付属外国人のためのドイツ文化会館(Deutsches Institut für Ausländer an der Berliner Universität。以下、DIAと記す)である。DIAは、ベルリン大学に新設された建物の中に事務局や講義室、図書館などを構え、同じ建物にあるゲルマニスティークのゼミナールと密接な関係にあったという。

 館長は、フィロローゲのK・レンメが務めた(1922~45年)。彼は、ベルリン大学の学術情報局やプロイセン科学・芸術・教育省に付設されたプロイセン留学中央局の長も兼任していた人物である。そのため、DIAは大学の保護下にありながら、大学の他の組織とは異なる特別な地位を有することになる。財政的な独立性も保障された。と同時に、レンメをはじめとする執行部が国家機構とのつながりも持っていたことで、DIAの活動は国家レベルの政策に呼応して進められることになる。

 いかなる政策がDIAの活動を規定していたのだろうか。それを知るには、当時の政治や経済、社会全体に目を向ける必要がある。ヴァイマル・ドイツは、戦後の対外的孤立を打破し、大戦で失われた国際的地位を取り戻すとともに、新たな販路や投資先、原材料の供給地を開拓すべく、「対外文化政策(auswärtige Kulturpolitik)」を促進した。「対外文化政策」とは、1912年に歴史学者K・ランプレヒトが考え出した概念で、すべての人間の道徳的・知的財産を形成する上でドイツは重要な役割を果たすべきだとする思想に基づいている。

 この「対外文化政策」の一つが、ドイツの大学で学ぶ留学生の専門教育(Ausbildung)の振興であった。DIAは、その典型例だったのである。ドイツ学術交流会(1924年、正式発足は1931年)、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団(1925年)、ゲーテ・インスティテュート(1932年)なども、戦後のこのような流れで創設された組織であった。

 もう一つの手段は、国境地帯や国外に住むドイツ系住民の保護(Betreuung)である。講和条約によってドイツ帝国領内から分離された地域出身のドイツ語を母語とするドイツ系住民やバルト海沿岸地域出身のドイツ系住民、ジーベンビュルガー・ザクセン(Siebenbürger-Sachsen)と呼ばれるトランシルヴァニア(ルーマニア中部・北西部)のドイツ系住民、オイゲン公が提起し、マリア・テレジア治世下で推進された植民事業の一環としてバナト(ルーマニア、セルビア、ハンガリーにまたがる地域)に移住したバナト・シュヴァーベン(Banater-Schwaben)と呼ばれるドイツ系住民がドイツの大学で学ぶ場合、本邦人ないしライヒスドイチェと呼ばれる国内のドイツ人学生と同等に扱われることになった。つまり、ドイツ語を媒介としてドイツ人・ドイツ系住民の一体化が図られたのである。

 次に、DIAの活動を詳しくみてみよう。DIAは毎年、8週間の語学コースを5回実施した。受講者は、1コースあたり平均して200~300名で、ドイツ語の技能に応じて、入門、初級、中級、上級というレベル別グループに分けられた(各グループの受講者数は10~20名)。コースの最後に実施される修了試験に合格すると、次のレベルに昇級することができ、最終的な目標は、留学生の入学条件の一つであるドイツ語技能証明書を得ることであった。1936年までに約3万人の留学生がDIAのコースを受講したという。

 ドイツ語の授業と並行して、コース受講者誰もが聴講できる講義も開講された。6~8の異なるテーマから成る一連の講義は、文化講座と呼ばれていた。ここでいう「文化」はきわめて広い意味で捉えられており、ドイツ文学やその他の芸術領域(音楽、造形芸術、建築、演劇)のほか、歴史や経済、科学・技術、哲学、ドイツの教育制度や地理といったテーマも含んでいた。つまり、ランデスクンデの講義だったのである。

 ランデスクンデ学習は、講義以外の形でも実践された。ベルリン近郊への遠足や休暇を利用した研修旅行、視察、博物館や展覧会、近代的な工業施設の訪問、社交の集い、演劇や合唱などである。こうしたさまざまな方法でランデスクンデ学習を提供したのは、DIAが初めてだったという。

 DIAは、書籍や雑誌の刊行にも熱心であった。文化会館の活動報告や受講生への告知などを掲載した雑誌のほか、『外国人のためのドイツ語―外国人のためのドイツ語教科書』(1923年)といった語学教科書や文学的な読み物、ランデスクンデに関する本、音声学に関する本、歌集が出版された。

 特筆すべきなのは、上述の、ドイツの大学への入学を目的とした留学生向けの一般的なドイツ語コースのほかに、母国でドイツ語教員になることを志す留学生を対象とした専門教育も行われていたことである。研修コース(Fortbildungskursen)や休暇中の講習会(Ferienkurs)、通信教育という形で、ドイツ語の授業のほか、言語学、文学、ランデスクンデやドイツ語教授法に関する授業が提供された。ベルリンの学校や教育施設での授業観察や教育実習も行われた。すべての課程を修了すると、外国でも効力を有するDaFの学位が付与されることになっており、1923年から33年の間に、毎年20~30名の留学生がこの学位を取得したという。

 この専門教育を通じて蓄積された教員の経験をもとに、DaFはDIAでの一研究領域にもなり、1930年にはDIAで長年教員を務めていたW・ルンプフによる『外国語としてのドイツ語―外国におけるドイツ語授業の手引書』[写真参照]が出版された。これは、DaF教員向けの最初の手引書だといわれている。それまでは「外国人のためのドイツ語(Deutsch für Ausländer)」という表現が一般的だったのに対して、この手引書では「外国語としてのドイツ語(Deutsch als Fremdsprache)」という表現になっている点も興味深い。このようにして、DIAはDaFという学問領域の「最も古い育成場所」であろうとしたといわれている。


 冒頭でも述べたとおり、私の専門は19/20世紀転換期ドイツの歴史で、中でも、社会国家(日本でいう福祉国家)の歴史を研究テーマとしている。社会国家の成立時期をめぐっては研究者によって見解が異なるが、私の研究は、その多くが社会国家へと継承されていくさまざまな制度や政策が形成され始めた1890年代を起点とし、その後の社会国家の展開を「長い20世紀」の歴史として捉える研究に依拠している。

 DaFに話を戻すと、先行研究が指摘しているように、また、私自身、DIAの出版物を実際に手に取ってみて感じたが、DIAの諸活動、とりわけランデスクンデ教材の中で示されたドイツ・ドイツ人像は、この時代の言説としては決して珍しくないものの、きわめてナショナリスティックでフェルキッシュである。さらにナチ時代には、ナチ・イデオロギー一色になったといわれている。こういった負の過去を克服するのに時間を要したこともあり、「DaFは1945年以前には存在しなかった」という見解もあるようだが、連続性により着目すれば、DaFはかれこれ100年以上の歴史を有している。つまり、19/20世紀転換期を起点とし、現在に至っているDaFの歴史もまた、「長い20世紀」という概念によって叙述され得るのである。

【参考文献】
Ammon, Ulrich, Die internationale Stellung der deutschen Sprache, Berlin 1991, S. 424-431.
Blei, Dagmar/Götze, Lutz, Entwicklung des Faches DaF in Deutschland. In: Deutsch als Fremdsprache. Ein internationales Handbuch. 1. Halbband. Berlin/New York: de Gruyter 2001, Ⅱ. Kapitel 7., S. 83-97.
Eggers, Dietrich/Palzer, Alois, Von ‚Deutsch für Ausländer‘ zu ‚Deutsch als Fremdsprache‘. Daten zur Geschichte eines Faches. In: Jahrbuch DaF 1 (1975), S. 103-117.
Eggers, Dietrich, Zur Geschichte und zum Selbstverständnis des Faches Deutsch als Fremdsprache aus der Sicht der Hochschulen und Universitäten der Bundesrepublik Deutschland. In: Ehnert, Rolf/Schröder, Hartmut (Hg.), Das Fach Deutsch als Fremdsprache in den deutschsprachigen Ländern (Wertstattreihe Deutsch als Fremdsprache, Bd. 26), Frankfurt/M.; Lang 1990, S. 83-101.
Günther, Roswitha, Zur Geschichte des Lehrfachs Deutsch als Fremdsprache an der Berliner Universität und seine Beziehungen zum Germanischen Seminar vor 1945. In: Wissenschaftliche Zeitschrift der Humboldt-Universität Berlin, Gesellschaftswissenschaftliche Reihe, Jg. 36, H. 8 (1987), S. 811-815.
Günther, Roswitha, Das Deutsche Institut für Ausländer an der Universität Berlin in der Zeit von 1922 bis 1933. Ein Beitrag zur Erforschung des Lehrgebiets Deutsch als Fremdsprache. (Beiträge zur Geschichte der Humboldt-Univerität zu Berlin, Nr. 19), Berlin 1988.
Mitteilungen des Deutschen Instituts für Ausländer an der Universität Berlin, Nr. 1 (20. Feb. 1923), S. 1-2.
秋野有紀「ドイツ対外文化政策における理念の変遷と近年の課題」伊藤裕夫・藤井慎太郎(編)『芸術と環境-劇場制度・国際交流・文化政策』論創社、2012年。
川村陶子「西ドイツ対外文化政策におけるダーレンドルフ改革の挫折―国際関係における文化のポリティクス―」『成蹊大学文学部紀要』第48号(2013年)、241-267頁。
柴宜弘(編)『バルカン史』山川出版社、1998年。
南塚信吾(編)『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年。
望田幸男『ドイツ・エリート養成の社会史―ギムナジウムとアビトゥーアの世界』ミネルヴァ書房、1998年。

(写真はW・ルンプフによる『外国語としてのドイツ語―外国におけるドイツ語授業の手引書』)

馬場わかな(早稲田大学非常勤講師)[img align=left]http://www.jgg.jp/uploads/photos/124.jpg[/img]