川村二郎さんのこと(M.Matsunaga)[J]   作成日:2009/03/01
 川村二郎さんについてのエッセイを、広報委員会からリクエストされました。川村さんとのおつきあいが長かったとはいえないわたしにその資格があるのかとためらいましたが、生前の川村さんと最後に一緒に仕事をさせていただいた学会員はわたしかもしれないと思い、いまこうしてパソコンに向かっています。
 川村さんと初めてお会いしたのは2005年の12月でした。2006年・2007年と、読売新聞の読書委員を務めさせていただくことになり、その最初の委員会が開かれたのです。川村二郎さんというと、わたしには雲の上の先輩という感じで、大変緊張してご挨拶したことを覚えています。読書委員会は読売新聞東京本社の十階にある会議室で開かれますが、二週間おきに開かれる会議に、川村さんはいつもほぼ一番にいらっしゃって、入り口の向かい側の、司会者に近い席に座っておられました。静かに本に目を通され、静かに意見を言われるのですが、ときおり「これはくだらない本だ」というようなこともはっきりとおっしゃって、はっとさせられることがありました。とにかくよく本を読んでおられ、委員会の生き字引のようでした。

 わたしが思い出すのは、委員会の後の懇親会の席での会話です。川村さんは記憶力がすばらしくて、本のこと、著者のこと、戦後のさまざまなできごとなどを、正確に覚えておられました。日本のプロ野球の歴史(一リーグ制からいつ、どのようにして二リーグに分かれたか。そのころどんなチームがあり、どんな選手がいたのか)を詳しく話してくださったことがあります。ちょっと恥ずかしそうに「レッドソックスの松坂投手が好き」とおっしゃっていたこともありました。名古屋生まれで旧制八高というところまではわたしの父と同じなので、その話をしたこともありました。

 懇親会のとき、わたしはよくビールにサイダーを混ぜていました。ドイツの「アルスターヴァッサー」を日本でも普及させようと、周りの席の人たちにも味見させていたのですが、いつも冷酒をたしなんでおられた川村さんから、「料理のまずい国は酒もいろいろ混ぜたがる」と一蹴されたことがあります。そうはいっても、最近は日本でもサワーとか、あれこれ混ざったアルコール飲料が増えてきたとは思うのですが…。ドイツを指して「料理のまずい国」と決めつけた川村さんが、生涯一度も海外に行かれたことがないということは、少し後になってから知りました。その代わり、日本国内をよく旅行されていました。神社の由来など、本も出されているから当然かもしれませんが、とてもよくご存知でした。ご家族の話も、ときどきされていました。小学校三年生のお孫さんが、もう「鬣」という漢字を知っていること。ご自分が若くして結婚し、子供が生まれた後、背中におぶって子守をしたことなど。「ねんねこを着て外に出たりしましたけど、ぼくはそういうことは、あまり気にしないのですよ」とおっしゃっていました。

 川村さんは完璧な夜型人間で、夜が更けてくればくるほど、頭が冴えわたるようでした。委員会はたいてい九時頃までで、その後みんなでパレスホテルのラウンジで飲みます。これが一次会で、二次会は市ヶ谷、三次会は神保町と、だいたい場所が決まっていました。わたしは夜になってお酒が入ると頭もぼんやりしてしまうので、たいていは一次会か二次会で失礼していましたが、一度だけ三次会まで川村さんのお供をしたことがあります。その日、三次会まで残ったのは四人だけで、しかもわたしは半分眠ってしまったのですが、川村さんが誰かを叱る声で目が覚めました。川村さんの知り合いの編集者がその店に来ていて、何か不用意なことを言ったみたいなのですが、その人に対して「俺は七十九歳だぞ」とおっしゃっていたのです。それは、「おまえみたいな若造に何がわかる!」という文脈のなかで言われた言葉のようでした。相手の人はひたすら恐縮していましたが、その人も決して若いわけではなく、大手出版社の部長クラスの人なのでした。

 川村さんに最後にお会いしたのは、亡くなるほぼ1か月半前の、2007年12月でした。パレスホテルのラウンジで、ちょうど川村さんと向かい合わせの席になり、このごろ細かい字が読みにくくなって…と自分の話をしていたら、「ぼくはまだ老眼になっていません」ときっぱりおっしゃいました。細かい字も読みにくくない! 老眼鏡はまだ持っていない! とうかがって、大変びっくりしながら会話をし、次の会場に向かわれる川村さんと、タクシーの窓越しにご挨拶したのが最後になりました。

 川村さんを偉い先輩と思いすぎて、当初あまり話しかける勇気がなかったことが悔やまれます。特に、お互いの共通項であるはずのドイツ文学の話をあまりしませんでした。老眼もきていない川村さんなのだから、まだまだお会いする機会はあるように思ってしまったのかもしれません。

 昨年の4月1日、読売新聞主催で川村さんを偲ぶ会が開かれました。これはとても盛会でした。女優の小泉今日子さんや作家の川上弘美さん、町田康さん、角田光代さん、三浦しをんさん、綿矢りささん、そのほか評論家や学者の方がたくさん来ておられました。角田さんが、川村さんと一度だけカラオケに行った話をスピーチしていました。川村さんは軍歌を歌ったそうです。

 この会の席上で、川村さんの40年以上にわたる読売新聞での書評を一冊にまとめた冊子が配られました。冊子といっても120ページもあり、それぞれのページに二本から四本、書評が収められています。日本文学は言うまでもなく、ドイツ文学関係の本ももちろん、川村さんはたくさん書評されてきたことがわかります。フォンターネ、ケレーニイ、ハスラー、カラゼク、ベルンハルト、ヴォルフ、ヴァインリヒ…。ドイツ文学について直接語り合うことはあまりできなかったけれど、残された本や書評を通して、まだまだ川村さんの声を聞くことができる。そう考えると、元気が出てきます。