アルノ・シュミット生誕100年に寄せて(A. Inukai)[J]   作成日:2014/07/22
2014年5月初旬、ゴールデンウィークを利用してアルノ・シュミット(Arno Schmidt, 1914-1979)の生誕100年記念イベントに出席した。当然ながらドイツにはゴールデンウィークなどないのだが、今年は5月1日のメーデーが木曜日だったこともあり、そこから土日までを自主的に四連休とした人が多かったようだ。生誕100年の各種催しは、すでに一月から盛り上がりを見せているが、この連休には演劇の初演が一つと展覧会のオープニングが二つ続けてあり、多くのシュミット研究者やファンがツェレとその近郊のバルクフェルトに集合した。
ドイツの人々よりほんの少し早く旅行を開始した私は、まずハンブルクの生家跡と写真展を訪ねた。ハンブルク=ハムにあった生家は戦時中に焼けてしまい、現在は見る影もないが、アルノ・シュミットは下記写真の角にあった住宅の4階に三歳違いの姉・両親とともに、父親が亡くなる14歳までの時を過ごした。ハンブルク中央駅からUバーン(シュミット幼少時はSバーン)で三駅ほどしか離れていないが、周辺は現在も緑が多く、シュミットの母校である小学校や実科学校を徒歩で巡ることができる。作家の誕生日である1月18日には、毎年ファンがこの静かな住宅街を訪れるが、今年は特に多くの人が集まり、生誕100年を盛大に祝ったそうだ。

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第一次世界大戦開戦のわずか半年前に生まれた作家は、その生涯の前半を戦争の重苦しい雰囲気の中で過ごした。3歳で読むことを覚え、10歳ごろには姉に英語の本をドイツ語に訳しながら読み聞かせ、大人になってからは6桁の足し算を暗算でこなす芸を披露していたという頭脳の持ち主は、学校の成績こそムラがあったものの、かなり早い時期に本と想像の世界に浸ることを覚えたようだ。第二次世界大戦中は、主にノルウェーで事務方に配属されて大砲の射撃データ算出を担当、短い捕虜生活の直後には通訳の職を得るなど、比較的恵まれた環境にあった。しかし作家本人は多感な青年期を戦争で無駄にし、文壇デビューが遅れたことを悔やんだ。

33歳で職業作家になる決心をしてから65歳という早すぎる死を迎えるまでの32年間は、精力的な創作活動に費やされた。しかしその本は全くと言っていいほど売れず、初めはアメリカに渡った姉からの救援物資や森で採集した食材、のちにパンのための仕事(Brotarbeit)と呼ばれる25冊にも及ぶ英米文学の翻訳、エッセイの執筆などで食いつないだ。生活は常に困窮していたが、「47年グループ」の招待を何度も断るなど、特定の団体と付き合うことはせず、ひたすら執筆に専念した。彼は『断片の夢(Zettel’s Traum, 1970)』に代表される、長大で難解な文学作品を生み出した前衛的言語実験者であり、ラジオ・エッセイや論文によって、ヴィーラント、ティーク、フケーら、特にナチスの手垢がついていない18、19世紀のドイツ文学作品を復権させた啓蒙者であり、ジェイムズ・ジョイスをドイツ語圏に広く知らしめたモダニズムの継承者としても知られている。しかしそれらの仕事の根底には、リューネブルガーハイデを愛した荒野の作家(Heidedichter)としてのシュミットがいる。

Bergländer liebe ich nicht: nicht den breiigen Dialekt ihrer Bewohner, nicht die zahllos gewölbte Erde, Bodenbarock. Meine Landschaft muß eben sein, flach, meilenweit, verheidet, Wald, Wiese, Nebel, schweigsam.(注1)
山地というのは好きではない。住んでいる人のどろっとした方言も、無数に曲がった大地、地面のバロックも好きになれない。私の風景は平坦でなければ、平らで、何マイルも広がっていて、荒野で、森、草原、霧があって、寡黙でなければならない。

この有名な引用が壁に書かれていたのは、ハンブルク・アルトナ博物館の写真展「風景写真家としてのアルノ・シュミット」である。
この展覧会を含め、今回訪れたイベントのほとんどを企画または主催したアルノ・シュミット財団は、バルクフェルト版で全作品が出揃ったこともあり、原稿の整理から周縁的な資料の整理へと活動の主眼を移しつつある。たとえば作家の死後大量に発見された写真や妻の日記などは、原稿や書簡に次ぐ一級の資料であることが明らかになってきた。
今回の特別展では、30年代以降の夫妻が撮影した風景写真が中心に展示されている。そのほとんどはすでに出版されているが、あらためて大きく引き伸ばされた展示写真を見ると、数学を好んだ作家らしい幾何学的な構成が際立つだけでなく、シュミットの作品世界に飛び込んだかのような幻想的な世界を現出させているものも多い。たとえば、展示されている写真には以下のようなものが写されていた。
・小さなキノコが群生し、こちらへ頭を寄せて口々に話しかけてきているかのような姿。
・青白い月光に照らされて川のように見える、倒れた草の流れ。
・青空の向こう側から勢いよくこちらへ襲いかかってくる分厚い雨雲の盛り上がり。

シュミットの作品は奇抜な造語や引用に伴う想像の飛躍に満ち溢れているため、日本で読んでいるとつい忘れてしまいそうになるが、この作家はあくまでも主観的な現実の描写を追求した「リアリスト」である。たとえば正書法に逆らって書くのは、実際に話されている言語と表記を近付けるためで、作品の舞台も綿密な取材を基に書かれる。性的表現や排せつ行為を取り扱うのはフロイト的解釈のためばかりではなく、肉体を持っている以上、現実の思考ではそれらを含まざるを得ないためである。さらにページ構成を二段や三段に分割したのは、同時に二つ以上の事柄が頭に浮かぶ様子や、断片的な思考過程を忠実にページ上に示そうとしたものだ。シュミットのテクストには多層的な構成が認められるが、展示写真にも同様に、被写体を擬人化し、背景の物語を想像したくなるような、現実でありながらも幻想的な風景が捉えられている。


イベント初日の5月2日はハンブルクからツェレへと移動し、城劇場にて『ポカホンタスのいる湖景(Seelandschaft mit Pocahontas, 1955)』の初演を観劇したが、これも美しい自然の描写が特徴的な短篇だ。舞台はディープホルツ近郊のデュマー湖で、休暇に来た男女4人のアバンチュールが描かれている。新しい創作手法への挑戦や出版社の変更をもたらし、「神の冒涜とポルノグラフィーの頒布」の疑いで刑事告訴され、転居を余儀なくされるなど、さまざまな意味で作家の転機となった作品だが、タイトルをみればわかるとおり、主題は「ポカホンタス」ではなく、あくまでも「湖景」の方だ。作家であるにもかかわらず「測量士」と詐称して水辺を歩き回る主人公は、目の前の景色(と、それに付随して女性)に自分の思考を投影させるのである。
シュミット作品の演劇化は、すでに初期作品でいくつかあるが、今日もっとも人気のある作品の一つとなった『ポカホンタス』は、知る限りでは今回が初の舞台化で、とりわけ初日は有名なセリフが出る場面などで絶えず笑いや拍手が客席から沸き起こり、大いに盛り上がっていた。

さらに翌日3日は、ボーマン博物館にて特別展「アルノ・シュミット100――生誕記念展」のオープニングセレモニーに出席した。1977年にノーベル文学賞賞金と同額の援助をアルノ・シュミットに提案し、財団設立の立役者ともなったヤン・フィリップ・レームツマの講演が行われた。200席用意されたという座席はあっという間に埋まり、立ち見する場もないほどの盛況ぶりだった。ここでは、シュミットの生涯と作品に関わる100のキーワードに関して資料の展示と解説があり、幼少期に贈られたテディ・ベアから、節約のためシュミット夫妻がつくっていた漬物瓶、トレードマークの緑の革ジャケットや創作原稿のメモ箱、ビデオ、スライドショーなどが展示されていた。多角的に作家の生涯と作品がとらえられるように工夫された試みで、物が簡単に手に入らず、何でも自分たちで手作りをした当時の様子や、メモ箱や文房具を几帳面に管理し、外出中の火事などを恐れて原稿を常に持ち歩いていたシュミットの性格も分かりやすく示されていた。

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そして最終日の5月4日は、バルクフェルトにて写真展「アルノ・シュミット、バルクフェルト――2200枚の写真」のオープニングセレモニーがあった。この屋外展示では、シュミット夫妻がバルクフェルト近郊で撮影したカラー写真2200枚すべてが初公開された。使用されたカメラは、『ユリシーズ』翻訳者であるハンス・ヴォルシュレーガーが作家の50歳の誕生日に贈った日本製の二眼レフ「Yashica 44」で、4×4cm判の特殊なフィルムを使っており、ハンブルクで公開されていた写真と同様、現像された写真はすべて正方形である。

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バルクフェルトは、リューネブルガーハイデの南側、ツェレの北東23kmにある小さな集落で、シュミットが移住した1950年代当時は45軒ほどしかなかった。ちなみに東京で23kmというと、東京駅から三鷹、または品川から横浜ぐらいまでは行ける距離だが、ツェレとバルクフェルトの間には村が二、三あるだけで、その間には延々と畑、荒野と森が続いている。現在も公共交通機関はなく、教会も郵便局もパン屋もない、辺鄙な場所である。

父の死後、母の実家があるシュレージエンに住んでいたシュミットは、戦後、引揚者(Umsiedler)としてドイツ各地を転々とした揚句に『ポカホンタス』騒動もあり、安住の地を探していた。作家夫妻が希望する家の条件は、家主や近すぎる隣人、突然の訪問者などの煩わしい人間関係がなく、創作に使える自然が豊かな平原にあることだった。1958年、夫妻はこの集落の一番端にある小屋を購入し、終の棲家とした。最寄り駅はバルクフェルトから約10km離れたエシェデにあるが、シュミットはそこまで徒歩で訪れたという。

写真に感銘を受け、次にいつこのような良い季節に来られるかわからない、と考えた私も、タクシーではなくレンタル自転車でズュートハイデを満喫することにした。作中によく登場する標識の数々や、しばしばステュクスに喩えられるリュターの川底が土壌の関係で本当に赤みを帯びている様子、その川面にしなだれかかる枝葉、水中にたなびく水草などを確認していった。また誰にも会うことなく小鳥のさえずりを聞きながら地平線だけを見続ける間にも、核戦争後のリューネブルガーハイデを舞台とした『黒鏡(Schwarze Spiegel, 1951)』や月面と寒村での物語が並行して語られる『寒村もまた危難の海(KAFF auch Mare Crisium, 1960)』などの各場面が思い出された。

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「Himmel glutblau und scheußlich wolkenlos (lieber ein Himmel ohne Götter als ohne Wolken!). 空は焼けつく青さで、不快なことに雲がない(雲がないより、神のいない天空のほうがいい!)(注2)」と言うほどではなかったが雨には降られず、ツェレからバルクフェルトまで二時間ほどかけてたどり着いた。土地の人からすれば取り立てて見るべきもののない場所かもしれないが、このような酔狂な企てをした展覧会訪問者は私以外にも当日だけで三人ほどいたことを付け加えておきたい。

研究者やファンとは別に、写真展をバルクフェルト村の歴史とみて、「うちのお父さんだわ」「この馬車は誰のものだったかしら」などと懐かしく鑑賞している住民の方とも何人か話ができた。中でも80歳すぎと思われる女性は、シュミット家の向かいに住んでいるという。
人間関係に関しては決して評判がよくなく、ポートレイトでは常に渋面を作るこの作家のご近所づきあいを聞いてみれば、彼女は熱心に良い関係だったことを強調した。
「うちは農家で牛を飼っていますから、シュミットさんの猫のために毎朝牛乳をお分けしていたんですよ」
「それにわたしの娘は彼と同じ誕生日でね。1月18日には毎年、シュミットさんは本を、娘はナッツ入りチョコレートをプレゼントしあっていました」
それではもしかして、『半喪の牛(Kühe in Halbtrauer, 1964)』のモデルとなった牛を飼っていたのはあなたですか? と聞くと、わからないけれどこの辺りはあちこちで牛を飼っていますよ、とかわされてしまった。普段のバルクフェルトは本当に静かで、歩き回っても一人か二人の住人とすれ違うのがせいぜいなので、このように生の声が聞ける機会が得られたことは貴重だ。学生時代に恐る恐るシュミット家を訪れたというラウシェンバッハ氏も、シュミットは意外にも話しやすい人だったと証言するが、一方で家の門はいつも鍵がかかっていて呼び鈴もなく、外から呼んでも誰かが出てくることはめったになかったという。さらにこの人間嫌いの作家は執筆時間を朝早くに定め、訪問者どころか鳥や動物にも邪魔されない午前3時ごろから外が明るくなるまでの完全な静寂の中で集中して執筆を行った。

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バルクフェルトの作家の家やその書斎、隣にある財団の様子はさまざまに紹介されているので省略するが、上記写真はシュミット家の庭で、中央の木陰に小さく見える横幅1m弱の岩が、シュミットの墓である。形を整えたり、碑文を刻んだりしていない、ただの岩が広い庭の端に置いてあるだけの簡素なもので、隣には創作活動を献身的に支えた妻アリスが眠っている。木々のすぐ向こう側は羊が草を食んでおり、そこから先に人は住んでいない。つましい生活を送り、すべてを文学へと捧げた唯我論者とその妻は、毎日のように二人で散歩をしたハイデに抱かれて眠っている。

生誕100年の催しはまだまだ続く。なかでも今年9月には、大きさ・内容ともに大著である『断片の夢』の英訳“Bottom’s Dream“がついに公刊され、10月にはツェレ城劇場にて後期作品『無神論者学校(Die Schule der Atheisten, 1972)』が上演されるそうだ。どちらもどのような評が出るのか今から楽しみだ。
いつも親切にお世話いただき、今回も各イベントへの参加と写真撮影をご快諾くださったアルノ・シュミット財団のズザンネ・フィッシャー氏、ベルント・ラウシェンバッハ氏をはじめ、この実り多き週末に「今回、最も遠方から来た訪問者」をさまざまにご歓待くださった多くの方々に深く感謝して、筆をおくことにしたい。

(注1)『ある好色者の生涯より(Aus dem Leben eines Fauns, 1953)』より。In: Bargfelder Ausgabe. Bd.I/1. Zürich (Haffmanns) 1987, S.307.
(注2)『ガディル、もしくはなんじ自らを知れ(Gadir oder Erkenne dich selbst, 1949)』より。 In: ebd. S.59.

参考URL:
アルノ・シュミット財団イベント情報
http://www.arno-schmidt-stiftung.de/Nachrichten/Veranstaltungen.html
アルトナ博物館「風景写真家としてのアルノ・シュミット」写真ギャラリー
http://www.altonaermuseum.de/de/ausstellungen/arno-schmidt.htm

犬飼彩乃 (首都大学東京非常勤講師) 
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