与那国島とドイツの意外な関係をめぐって (T. Tsuji) [J]   作成日:2015/11/21
(執筆に先立ち、9月下旬の台風21号の被害に遭われた与那国町の皆様に心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い島の復興を祈念いたします)

私の専門は、大きく言えば日本とドイツの文化交流史についての研究ですが、特にポストコロニアリズムの視座を取り入れて、日独の交流史をより多角的に捉え直そうと試みています。その中でも私は近年、二つの具体的な研究テーマに取り組んでいます。一つは、ドイツにおける日本学(Japanologie)の成立史を明らかにしつつ、初期の日本学者たちがいかなる態度で日本研究に臨んでいたのかを探ること、もう一つが沖縄県宮古島の「ドイツ皇帝博愛記念碑」をめぐる史実と言説の再検証を出発点に、沖縄とドイツの文化交流史にまつわる様々な事象を解明することです。このコラムでは、後者の「琉独交流史研究」の中から、日本最西端の島・与那国島とドイツとの意外な関係を紹介するとともに、今年8月に与那国町で行った文化講演会の様子についても述べたいと思います。
与那国との出会いは、様々な偶然の産物として生まれました。そもそもの始まりは、筑波大学大学院に在学中、指導教授の畔上泰治先生から、宮古島とドイツの交流史に関する研究資料をいただいたことでした。1873年に宮古島沖でドイツ商船「ロベルトソン号」(R. J. Robertson)が座礁し、乗組員が島民に救助されたことに関し、これに謝意を示すとの名目でドイツ政府は1876年、いわゆる「ドイツ皇帝博愛記念碑」を宮古島に建立しました(この事実はその後も様々な場面で日独友好の証左として引き合いに出され、1936年には博愛記念碑の建碑60周年式典も開かれました)。このテーマを出発点に、沖縄とドイツ(ヨーロッパ)の交流史について調べを進めるうち、与那国とドイツの接点を発見した次第です。

その直接のきっかけは、昨年(2014年)夏、宮古島とドイツの交流史の調査のため訪れたハンブルクで、当地の日本領事事務所の深川康所長(当時)から、ハンブルク民族学博物館(Museum für Völkerkunde Hamburg)に沖縄関連の所蔵品があることを伺ったことでした。宮古島関連の所蔵品もあるかもしれない、と思った私は、深川氏に依頼して博物館にアポイントを取っていただき、同館の学芸員ズザンネ・クネーデル博士(Dr. Susanne Knödel)を訪問し、その詳細をたずねました。同氏が所蔵品のデータバンクに „Liu Kiu“, „Ryu Kyu“, „Riu Kiu“, „Ryukyu“, „Loochoo“, „Okinawa“ など様々なワードを入力して検索をかけたところ、71件がヒットしました。そしてそれらはいずれも、同博物館が所蔵品登録をした際に作成した目録カード(Karteikarten)のデータに基づいていること、またこの目録カードの実物も博物館に残されていることも判明しました(但し残念ながら、所蔵品そのものは現在ハンブルク市郊外の倉庫に保管され、写真撮影や修復の作業を待っている、とのことでした)。

今年(2015年)2月に再度ハンブルクを訪れて、沖縄関連所蔵品の目録カードの写しを入手した私は、早速その内容を調査しました。すると、ハンブルク民族学博物館の沖縄関連収蔵品71点は、いわゆる「ヴァールブルク・コレクション」(14点、奄美諸島でソテツの採取などを行った植物学者Otto Warburgが寄贈したもの)と「ウムラウフ・コレクション」(54点)に大別できること、そしてこのうち、購入先が „J. F. G. Umlauff“ と記された後者の入手地のほとんど(54点中53点)が „Riu Kiu Inseln, Insel Jonakuni“ つまり「琉球諸島・与那国島」であることもわかりました(もう1点は、鹿児島県の喜界島で収集された勾玉)。なお、与那国島で収集されたとされる53点の品物は、そのほとんどが生活雑貨、民具である点が特徴的です。またこのことは、ベルリン国立民族学博物館が琉球王家の美術工芸品を多数所蔵しているのとは対照的であると言えます。

宮古島のドイツの交流史を探るなかで図らずも判明した、この与那国島とドイツとの接点について、私は早速、知り合いの沖縄研究者で、昨年末から与那国町役場に嘱託職員として勤務している小池康仁博士に報告しました(小池氏は現在、来年2016年に開館予定の与那国島歴史文化交流資料館「ディディ与那国交流館」の開設準備に携わっています)。するとほどなくして、与那国町の教育委員会の村松稔さんより、このテーマについて講演をしてほしいとの依頼が舞い込んで来ました。与那国の人々にとって、島の対外交流史と言えば、台湾や中国など東アジアとの関係が中心になるだけに、ドイツとも交流があったという事実は意外であり、ぜひ詳しい話を聞きたいとのこと。こうした経緯で、今年8月、与那国町教育委員会主催の文化講演会において「与那国、もう一つの交易拠点:ハンブルク民族学博物館所蔵資料を手がかりに」と題した詳細を発表することになったわけです。

ここで、与那国島について簡単にご紹介したいと思います。日本最西端に位置する与那国島は、一島で八重山郡与那国町を成しており、人口は約1500人、観光業や農業、製造業が主要産業です。最近では今年2月に、自衛隊配備の是非を問う住民投票が、永住外国人も含む中学生以上の町民を対象に実施されたことでも注目を集めました。東西約12キロ、南北に約4キロの横長の形をしており、周囲は27.49km、面積は28.95㎢、主な集落は島の中部の祖納、西部の久部良、南部の比川の3つがあります。起伏の多い山がちな地形で、最高峰の久良部岳(標高231メートル)や久部良岳(194m)などの険しい山や、人跡未踏のジャングルも存在します。また島の南東の沖合には海底遺跡も発見されており、ダイビングスポットとして人気を集めています。

またこの島は、八重山諸島の一つに数えられるものの、周囲の潮流が激しいことから、昔から渡航が困難な土地、渡難(どなん)とも呼ばれ、他の島々とは異なる独自の文化を形成してきました。言語的にも、沖縄本島の沖縄語(沖縄方言)とも八重山語(八重山方言)とも異なる与那国語(与那国方言)が話されています(なおユネスコによれば、与那国方言は、八重山方言とともに、消滅する「重大な危険」にある言語とされています。1)自然も豊かで、世界最大の蛾アヤミハビル(ヨナグニサン)など生物の希少種の宝庫でもあります(ちなみに朗報ですが、ハブはいません!)。お酒の好きな方は、アルコール度数60度の泡盛を楽しむこともできます。沖縄の離島、と聞いてイメージされるような遠浅のビーチは少なく、むしろ断崖絶壁の岩礁に囲まれた絶海の孤島、という性格を有しています。東京から約1900キロ、那覇から約500キロ、石垣島から約120キロ離れている一方、台湾の東海岸まではわずか111キロの位置にあります。石垣から1日3便、那覇から1日1便、39人乗りのプロペラ機が与那国空港に就航しているほか、週に2便、石垣からフェリーも運行されています(2015年8月現在)。

さて、前述の経緯を経て、8月24日に講演会の開催が決定したのですが、運悪く台風15号が八重山地方に接近したため、予定していた前日のフライトは全てキャンセル。教育委員会が機転を利かせて下さり、講演会の日取りは早い段階で25日に1日延期されたものの、肝心の講演者は翌24日も(与那国行き飛行機の欠航で)石垣島で足止めとなり、空席待ちをしていた25日(講演会当日)の便にどうにか乗ることができ、予定より2日遅れて現地に到着しました。

島で最も大きな集落である祖納にある「与那国町複合型公共施設」で行われた講演会ですが、日程が延期されたことで旧盆(2015年は8月26日~28日でした)直前の開催になってしまったことや、町のイベントを案内する手段でもあった防災無線が台風で使えなかったこともあり、来場者は10数名とやや少なめでした(それでも町民の1%弱の方に来場いただいたことになります)。とは言え、外間町長や崎原教育長、郷土史の専門家やマスコミ関係者など、「コアな」方々にお越ししいただき、1時間半に及ぶ私の冗長な話にも関心を持って聞き入って下さいました。

19世紀後半からハンブルクに店舗を構えて繁盛した、創業者ヨハン・フリードリヒ・グスタフ・ウムラウフ(Johann Friedrich Gustav Umlauff, 1833-1889)の名を冠する総合商社ウムラウフ(J. F. G. Umlauff)は、その正式名称「ウムラウフ博物標本商兼博物館」(Umlauff Naturalienhandlung und Museum)が示すように、世界のあらゆる地域から美術品、工芸品、珍奇な品物、その他人類学的・民族学的価値がありそうな品物を集めて各地の博物館に売却するのみならず、自社で博物館まで持っていました。さらに、象などの生きた動物を集めて動物園などとも取引していましたが、これは創業者ヨハン・フリードリヒ・グスタフの妻が、ハーゲンベック動物園(Tierpark Hagenbeck)で有名なカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck, 1844-1913)の妹であったこととも関係しています。

講演会では、ウムラウフ一族が運営するこのハンブルクの総合商社の活動と博物館との関係にも言及し、当時の博物館や動物園、博覧会が、西欧文化の優位性を可視化する装置として機能し、植民地主義を支えていた点にも触れる一方、現在のハンブルク民族学博物館がこうした反省のもと、文化間の相互理解を通した寛容の精神の育成に取り組んでいる事実2)も紹介しながら、具体的な所蔵品の内訳について解説を行いました。また同博物館より提供された、目録カードの写しを来場者に回覧し、そこに描かれた所蔵品のスケッチから、個々の所蔵品が与那国固有のものであるのか、それとも沖縄の他の地域から集められたものであるかについて、来場者と一緒に検討しました。その結果、いくつかのスケッチについては、与那国島に特有のものである可能性が高いこともわかってきました。この点は、今後も島の郷土史研究者の先生方と協力して明らかにしていきたいと思います。

ハンブルク民族学博物館に眠る53点の与那国関係所蔵品をめぐっては、ウムラウフ社の与那国での収集活動の詳細について(どのように取引したのか、仲買人がいたのかなど)、また同社からハンブルク民族学博物館への売却の過程について(売却されなかった品物もあったのか、他の博物館にも売却したのかなど)、あるいは収集の動機について(営利目的によるものか、学術的関心に基づくのかなど)様々な疑問が浮かんできます。明治30年代に行われたとされる、同社による東アジアでの大規模な収集活動の実態についても、先行研究が乏しいため、今後も大いに研究の余地があると言えます。

なお、肝心のハンブルク民族学博物館の所蔵品そのものについては、将来的に「里帰り展」が実現する可能性も浮上しています。同博物館は現在、個々の収蔵品の再調査や修復、写真撮影の作業を行っており、対象となる品が10万点以上あるために完了までにあと数年を要すると言われているものの、学芸員のクネーデル博士を通して間接的に伺ったところでは、ヴルフ・ケプケ館長(Prof. Dr. Wulf Köpke)は、先方からの希望があれば所蔵品の貸し出しに前向きに応じる方針を示しているとのこと。折しも来年には、待望の町立歴史文化交流資料館がオープンする予定になっているだけに、近代の与那国島の風俗・文化を知る上での貴重な手がかりとなる所蔵品の借り受けが、ぜひ近い将来に実現してくれれば、と願っているところです。

最後に、文化講演会の開催に尽力いただいた外間守吉町長はじめ与那国町役場の皆様、崎原用能教育長はじめ与那国町教育委員会の皆様、また当日ご来場いただいた町民の皆様、資料を提供下さったハンブルク民族学博物館、博物館にアポを取って下さったハンブルク日本領事事務所、その他お世話になりました皆様に「あらーぐ ふがらっさ」、与那国語で「大変感謝申し上げます」。

辻 朋季 (明治大学)


1) http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/(2015年11月5日閲覧)
2) http://www.voelkerkundemuseum.com/42-0-Geschichte.html(2015年11月5日閲覧)

参考文献
- Hilke Thode-Arora: „Die Familie Umlauff und ihre Firmen - Ethonographica-Händler in Hamburg“, in: Mitteilungen aus dem Museum für Völkerkunde Hamburg, Bd. 22, 1992, S.143-158.
- 東京国立博物館(編):『東京国立博物館図版目録:琉球資料編』、中央公論美術出版、2003年。
- ドイツ-日本研究所(編):『世界に誇る・琉球王朝文化遺宝展:ヨ-ロッパ・アメリカ秘蔵』、ドイツ-日本研究所、1992年。

写真の説明
写真1:与那国で収集された民具など53点を収蔵するハンブルク民族学博物館
写真2:与那国島の東端、東崎(あがりざき)
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