ユダヤ音楽の現在を一瞥する (H. Kuroda) [J]   作成日:2017/02/15
 きっと本会の多くの方はユダヤ人の音楽と言えば、メンデルスゾーンやマーラーあたりを思い起こされるだろうが、ここで扱うのは東欧ユダヤ人の音楽「クレズマー」である。ある研究によればドイツでは19世紀の終わりから、東欧ユダヤ人がしばしば文学や思想で取り上げられ、「本物のユダヤ人」として「創造」されたというから(注1)、かれらの姿にすでに馴染みのある方もいるだろう。あの黒いカフタンを着て髭もじゃというステレオタイプで描かれるユダヤ人である。この東欧ユダヤ人のあいだでは実に旺盛な音楽活動が営まれていた。こうした事実を朧気ながら知ったのは20年以上もまえで、Don Byronというミュージシャンが再現したMickey Katzの音楽によってである。Mickeyの音楽は正確に言うとアメリカのユダヤ人移民のそれで、東欧ユダヤ人のクレズマーと当時のヒット曲の継ぎ接ぎを、YiddishとEnglishのちゃんぽんYinglishで歌うという趣向だ。あからさまに笑いを持ち込むMickeyの芸に虜とはなったものの、この音楽にどのような背景があるのか手がかりはほとんどなかった。こうした状況に応える研究が2000年前後からぽつぽつ出始める。ささやかながら筆者も2011年にクレズマーをめぐる著書を出すことができた。ここではその著書刊行後の動きを思い付くままスケッチしてみたい(以下の文章では敬称を省略する)。ちなみに「クレズマー」(Klezmer)とは東欧ユダヤ人の楽士を意味したが、冷戦終結前後のワールド・ミュージックのブームによって、かれらの音楽一般を指すジャンル名としてすでに定着している。朝ドラ「あまちゃん」の音楽にも出てきたので、知らず知らずのうちに聴かれた方もいるだろう。
 わが国ではYiddish語については上田和夫の先駆的な仕事があり、西成彦によるYiddish文学への取り組みも特筆に値する。最近も赤尾光春によるS. Ansky作の戯曲“Dybbuk”の訳と上演があったばかりだ。さきにも述べたように東欧ユダヤ人の音楽をめぐって、欧米で本格的な研究が出始めるのは2000年前後だが、日本では音楽誌などで散発的に取り上げられる一方で、水野信男と伊東信宏が音楽学の立場から研究を積み重ねていた。わたしの著書は文化史の視点からの後追いにすぎなかったが、拙著刊行をきっかけに思いがけない交友がもたらされた。なによりも拙著の出版を機に催されたセッションで、大熊ワタルと出会えたことの意義は大きい。かれはチンドンで腕を磨いたというユニークな経歴の持ち主で、1986/7年にTom Coraという来日中のミュージシャンから、クレズマーの手ほどきを受けたというから筋金入りだ。大熊にはTom直伝の“Der Glater Bulgar”という曲の録音がある。さらに大きな転機となって現在まで繋がっているのが、Zalmen Mlotekを2013年に招聘して各地で催した、ホロコースト関連のレクチャー・コンサートだった。Zalmen招聘の直接の契機となったのは、Shirli Gilbert著“Music in the Holocaust” (『ホロコーストの音楽』としてみすず書房から出版)の訳者と編集者から、この本で扱われた音楽を再現する場をもちたい、という相談をもちかけられたことによる。Zalmenのご両親はまさに戦後のアメリカで、Yiddishの歌の発掘と保存に生涯を捧げた音楽学者で、Zalmen自身は“Ghetto Tango”というCDがあるばかりか、ニューヨークのNational Yiddish Theatre Folksbiene (NYTF)の総監督ということもあって、こうした企画にお呼びするには打って付けの方だった。Zalmenの父Yoslは杉原千畝の「命のヴィザ」でポーランドから逃れた方で、Yoslゆかりの神戸のシナゴーグにZalmenをお連れしたことが、筆者にとってはツアー中最大のハイライトとなった。

 Zalmenの率いるNYTFは2015年5月に設立100周年を迎え、ニューヨーク市が全面協力をするKulturfestNYCを催した。たとえばYiddish劇の上演や音楽会はもちろん、Yiddish劇の新作脚本のコンクール、国内外のYiddish関係の研究者のシンポも含め、一週間にわたって市のあちこちで催されたフェスに、筆者も大熊ワタルのバンドとともに参加した。ワールド・トレード・センター跡地近くの、見上げるばかりの高さのショッピング・タワー、あるいはセントラル・パークのオープン・ステージで、東欧ユダヤ関係の音楽ばかりを共有するという、なかなかほかでは得られない貴重な体験ができた。オープニングでは世界から集まったミュージシャンが、グラミー賞に輝くKlezmaticsのFrank Londonの指揮下、さまざまな演奏をステージ上で繰り広げた。ただしフェスに参加したミュージシャンで非ユダヤ系だったのは、大熊のジンタらムータとハンガリーのMuzsikásぐらいだったのではないか。あるいはそのオーディエンスはほぼ中年以上のユダヤ系で、このフェスのあり様に一抹の違和感も抱いたのも事実である。

 1980年代に起こったワールド・ミュージックのブームのさい、あらゆる音楽をまずは分け隔てなく聴いてみよう、あえて言えば見境のない雑食的な耳をもとう、という(不)作法を身に付けた筆者にとって、フェスは音楽によるオーディエンスの分断でもあった。バルカンやロマの音楽を現代化したGoran Bregović (映画「アンダーグランド」の音楽を担当)、スイスのクレズマー・デュオKolsimcha (映画「ビヨンド・サイレンス」に楽曲を提供)を、たまたまドイツで聴く機会があったが、ドイツ人以外の方も加わって老若男女がそれこそこぞって楽しんでいた。クレズマーを発信する音楽家自身はとてもオープンで、たとえ相手が非ユダヤ系であっても歓迎するどころか、民族横断的な活動をむしろ自分から求めていく姿勢の持ち主だ。たしかに「ワールド・ミュージック」というのは商業主義的な謳い文句で、音楽が等価に聴けるというのは一面でナイーヴな夢想でもあろう。あとで友人に聞いたところKulturfestのオーディエンスはニューヨークならではのもので、9.11以降はオーディエンスのあり方も変わってきたということだが、日本から見ているだけでは窺い知れない変化があったのかもしれない。

 大熊たちのニューヨーク公演は好意的なレヴューがWeb上に掲載され、これがきっかけとなってバンドは翌2016年、KlezKanadaというキャンプとポツダムでのユダヤ映画祭に招待され、ポツダムでは大熊のパートナーのこぐれみわぞうが、数年来取り組んでいるブレヒト・ソングをドイツ語で披露したところ、これが現地のMax Raabeに激賞されてしまうという一幕もあった。なぜ日本のクレズマーをわざわざ呼んだのかという大熊の問いに、ポツダムのプロデューサーは「普通にやっても面白くないでしょ」と答えたという。大熊たちは東北での震災後に早くから路上デモに繰り出したが、個人的には2015年の「平和といのちと人権を! 5・3憲法集会」の大トリで、みわぞうがクレズマーの「生き生きとしあわせに」(Lebedik un freylekh)を演奏したことが忘れられない。シャガールの研究からクレズマーの演奏へと進んだ、オルケステル・ドレイデルを率いる樋上千寿も、ワイマールのワークショップへの参加や、Brave Old WorldというバンドのAlan Bernとの交流を通じて、クレズマーの裾野を広げる活動を続けている。ことし2017年5月には筆者も関わってFrank Londonを招聘し、芸大・立教・広島市大・阪大・京大など、日本各地で講演と音楽のセッションを催す予定である。KlezKanadaに参加して最新の動向に接した大熊によると、現在はラトヴィアの若手がぐんぐん台頭しているということで、クレズマーは世代交代が順調に進んでいるという感じがする。

 ここまでは最近の音楽の現場ばかり追ってきたが、ならば研究面ではどのような進展があったのだろうか。2016年にはその決定版とも言えるWalter Zev Feldmanの“Klezmer. Music, History, and Memory”が出版された。Feldmanには当時存命中だった長老から手ほどきを受けて、手探り状態で録音したレコードが1979年にあるから、40年近くクレズマーに取り組んできたことになる。20世紀初めの歴史的録音も研究が粘り強く続けられている。アメリカで録音されたものについては、ディスコグラフィーが比較的整備されているが、このところは東欧の貴重な音源の発掘が相継いでいる。カフカがプラハで観た役者たちの歌を集めた、“Wandering Stars. Songs from Gimpel’s Lemberg Yiddish Theatre 1906-1910”までリリースされている。ドイツではGiora Feidmanが蒔いた種がすでに芽吹いているが、この間に東ドイツのクレズマー事情も分かってきた。オランダのロシア系亡命ユダヤ人のサークル――Ansky Clubと称した――でYiddish文化に触れ、同時にコミュニストでもあった歌手Lin Jaldati (1912-1988)は戦後、作家のアンナ・ゼーガースから東ドイツに呼ばれて、国内外でYiddishの歌を歌う活動に従事したという人物である。Jaldatiには戦時中に強制収容所に送られたという経験もあり、ベルゲン・ベルゼンではアンネ・フランクの世話までしている。この旧友アンネとはアウシュヴィッツに送られる列車も一緒だったという。東ドイツ政府は反ファシズムやユダヤ人追悼の名目で、ことあるごとにJaldatiをプロパガンダに使い、Jaldatiの側も活動の場を当地に求めたというのが実情だった(注2)。Jaldatiと実娘のJalda Reblingを描いた芝居“Muttersprache Mameloschn”は、Deutsches Theater Berlinで評判となり、実は大熊たちをポツダムの映画祭でプレゼンしたのも、現在はユダヤ教のカントールを務めるJaldaだった。

 イスラエルのシーンについても簡単に触れておきたい。かの地ではここ数年来とくにジャズへの関心が沸騰していて、Avishai Cohenなど日本でも取り上げられる者も出てきた。中高生のうちからジャズ教育が盛んに行なわれ、モダン・ジャズにオリエンタルな風味を添える、という枠にはとても収まらない活動を繰り広げている。だがそうしたジャンル以上に注目したいのは、セファルディーがLadino語で築いてきた音楽の(再)評価で、これがRembetiko (19世紀終わりから20世紀前半に展開したギリシア音楽)への人気と相俟って、イスラエルでは東地中海への関心が高まっている。ユダヤ人でありながらRembetikoの頂点に君臨したRoza Eskenazi (1890s–1980)のドキュメンタリー映画もそうした関心の表われだ(注3)。日本からは歌手の岡庭矢宵が単身イスラエルに渡って、バル=イラン大学に籍を置きながら活動を続けている。岡庭がピアニストのGilad Chatsavと模索する“Ladino Jazz”では、セファルディーの歌と部分的にモダールなジャズとがマッチする。さらに言えばイスラエルの建国は1948年のことで、ユダヤ人はそれまでディアスポラを生きてきたので、ドイツや日本にあるような意味での民謡を欠いている。こうした状況下で「イスラエル民謡」を紡ぐには、「想像の規範」(imagined canon)が必要だったとする説もあり(注4)、カフカの友人マックス・ブロートがその規範作りに関わっていたことは、池田あいのの研究がまさに明かしているとおりだが、イスラエルの音楽は今もなお流動的だと言ってよいだろう。

 あらためてクレズマーのことに話題を戻して本文を終えたい。クレズマーをめぐる拙著を2011年に出した時点で、この音楽のピークは2000年前後だったと総括したが、ここ数年の動きだけを振り返ってみても、クレズマーはしぶとい生命力を見せつけている。なにしろリヴァイヴァルの開始は30年以上もまえである。たとえば最近はユダヤのアイデンティティーなど関係ない、と豪語するメンバーのいるバンドまで存在するらしい。だがそれでも構わないじゃないかと個人的には思っている。ある音楽がやがて然るべき拡がりをもつためには、先人たちの文化遺産には最大限の敬意を払いながらも、正統性と真正性をはみ出してしまう部分があるからだ。あえて言えばそれを繰り返し実践してきたのがクレズマーである。おそらくそれが一過性のリヴァイヴァルに終わる気配は今のところない。

(注1) M・ブレンナー(上田和夫訳)『ワイマール時代のユダヤ文化ルネッサンス』教文館、2014年の第Ⅲ部参照。
(注2) David Shneer: Lin Jaldati. Trümmerfrau der Seele. Berlin (Hentrich und Hentrich Verlag) 2014参照。
(注3) http://www.mysweetcanary.com/ 参照。
(注4) Philip V. Bohlman: The Study of Folk Music in the Modern World. Bloomington and Indianapolis (Indiana University Press) 1988, pp. 116-119参照。

本文で触れた関係者の動画は以下のサイトなどで視聴できる。
Klezmatics:https://www.youtube.com/watch?v=NrstsUEOdKg
ジンタらムータ:https://www.youtube.com/watch?v=a29EVNIGIyk
みわぞう:https://www.youtube.com/watch?v=hEWo2B_BRtg
Roza Eskenazi:https://www.youtube.com/watch?v=t2ZKR6OldHE
岡庭矢宵:https://www.youtube.com/watch?v=ww4dLfKQHe0
(本エッセイはJSPS科研費、JP16K02352の助成を受けたものです。)

黒田晴之(松山大学)