上智大学卒業生の勉強会「青い花」の歩み (M. Akasaka) [J]   作成日:2020/02/13
 1979年に上智大学文学部ドイツ文学科卒業生と外国語学部ドイツ語学科卒業生2名の呼びかけによって勉強会が発足した。会の名前はノヴァーリスの小説にちなんで「青い花」。学生時代に学んだドイツ文学を、社会人、家庭人となった今だからこそ、学び直してみたいという熱い思いから発足した会は、1~2ヶ月に1度のペースで昼の時間帯に勉強をつづけてきたが、2020年3月をもって活動を停止することになった。設立から40年以上にもなる。私も気が遠くなるほど長い間、会の末席に名を連ねてきた。この文章を書くに当たり、会誌《青い花》のバックナンバーのページを繰って20年ほど前に寄稿した自分の文章を読み返すと、はたして自分はあれから変わったのか変わらないのか、進歩したのか退歩したのか……と不思議な感覚にとらわれる。


 発足時は、日本経済新聞に「母校に帰ってきた主婦」という見出しで記事が出た。なにしろまだ1979年のことである。当初の会員は専業主婦が中心だったが、向学心に燃えつつも、諸条件をととのえて家から大学がある四ツ谷にたどり着くまでには、多くの障害があったのではないだろうか。


 最初の頃は毎月の講師はほとんどが上智のドイツ文学科の先生方であった。特に「青い花」の名付け親である故トーマス・インモース先生は、草創期には年間6回程度、現代文学やロマン主義における女性像、文学と深層心理学、日本文化と西洋文化、ゲーテの詩などといったテーマで、連続講義を担当してくださっている。ほかにも故戸川敬一先生をはじめとして、お世話になった先生方のことが次々に思い出される。コンサートも何回も行われた。このコンサートは戸川先生の独壇場だった。シューベルトの《美しき水車小屋の娘》や《冬の旅》、シューマンの《リーダークライス》といった歌曲の詩について解説し、声楽家の方々のみならず戸川先生ご自身も歌われることがたびたびあった。


 会の創設にあたってインモース先生からいただいたメッセージを、以下に訳してみる。


 ノヴァーリスの小説『青い花 (Heinrich von Ofterdingen)』の冒頭で、若い主人公は夢のなかで洞窟をさまよううち、泉のほとりにひっそりと咲く青い花の幻を見つけます。さらに近づくと、花弁のなかに少女の顔が見え、彼はそのかんばせにすっかり魅了されてしまうのです。のちに見聞を広めるために旅に出た彼は、旅の終わりに祖父の家を訪れ、詩人クリングゾールの娘マティルデに出会いました。驚くべきことに、夢のなかの少女は、マティルデその人だったのです。彼女は、最初から彼の花嫁となるよう定められていました。中世の世界を手探りで遍歴した彼の旅の行きつく先は、マティルデだったのです。「ぼくたちはどこへ行くの」と、ノヴァーリスは問います。「いつも故郷へ」というのがその答えでした。


 青い花は、くりかえし論議されてきたドイツロマン主義のシンボルです。詩人たちはそこに何を見ていたのでしょうか?


 おそらくこのシンボルが意味するところは、人によってさまざまでしょう。しかしその背景には、私たちひとりひとりの人生には目標がある、という共通の認識があります。私たちの人生の意味は、この目標を探し求め、発見することによって実現します。しかし、探求の旅そのものにも、すでに深い意味があるのです。私たちの多くは、目標がわかりません。けれどもさまざまなしるし、すなわち夢、人との出会い、神との出会い、運命の打撃、喜びと苦難のなかにそれは姿をあらわします。しかしその前提として(はっきりと意識されない場合もあるでしょうが)、神の摂理がすべてを導き、定めるのだという信仰がなければなりません。


 ですから、私たちの人生は、永遠に同じ点を中心にして意味もなくぐるぐる回っているのではありません。たとえそのように見えたとしても、つねに前へ、目標へと進んでいるのです。人生は、回転しながら前へ進んでいく螺旋の形をしています。このように努力することによって、私たちの人生には深い意味と活力とが与えられます。ひたむきに目標をめざすという信念を失ってしまった人は、退屈、憂鬱、精神的な鈍重さにおちいります。これは後期ロマン主義の時代にも見られる刻印です。


 この会に「青い花」という名前をつけたのは、私たちもまた倦むことなく、おのれの自我を全うするために努力し、神に抱かれた豊かな存在をめざして生きていきたい、という願いがあったからです。



 私自身は、学部卒業後に大学から離れてしまった人間なので、大学内部の事情や運営については疎いのだが、「青い花」という勉強会はかなり特異な存在だったような気がする。当初は会則もなかった。会員は毎年登録または継続の手続きをして会費を支払い、「青い花」と同時に「上智大学独文学会」の会員となる。年間のプログラムは会員の話し合いで決め、候補にあがった講師の先生方に直接連絡をとって交渉する。その意味では非常に自由で、しかも生涯教育の先取りという一面もあったと思う。大学側とのつかず離れずの微妙な関係性もユニークだった。


 1994年の「青い花15周年感謝の会」のスピーチで、当時の山本襄治上智学院理事長は、学内の先生が「その青い鳥だか青い花だかいうのは何ですか?」とおっしゃっていた話を紹介し、ご自身の率直な感想を述べている。


私、なんとなくこの会の存在に気がついた時には、まあ正直に言うと、『なんだ? この、うさんくさい会は……』と、こう思った時があるんです。〔中略〕定期的に3、4人の卒業生が、キャンパスのなかをうろうろ歩きだした。当時はまだ大学紛争の余韻が残っていた頃ですから、なんとなく不法集会とか正体不明の集まりなどというのには、我々すぐ神経をとがらせていたものでして……しかし、それにしては、屈託のないほほ笑みとあたたかい雰囲気のグループだなと思っていました。〔中略〕これは大学あるいは学校法人のほうで計画したことではないのですが、あの、要するに、上智大学から卒業生の皆さんのなかに蒔かれたソフィアの種が、自然に芽を出して、そして伸びて咲かせた花だということが言えるのではないでしょうか。


 卒業生を中心とする自主的な学びの場が40年以上もつづいたというのは、稀有な例だろう。講師の先生方にとっても、若い学生を相手にするのとはかなり勝手が違うが、会員の熱意と人生の実体験に裏づけられたリアクションには、興味深い一面があったのではないだろうか。だが会員数は減少の一途をたどり、しかも会員の高齢化が進んで、閉会の決断に至った。伝統的に昼の時間帯に行われている会とはいえ、独文・独語の卒業生だけでなく広くドイツ語圏の文学・文化に興味をもつ人、在学生、第一線を退いてもう一度学び直したいと考えている人――そうした多彩な人々が参加し、互いに切磋琢磨し合う場としての可能性は依然としてあるのではと考え、それなりに会員募集の努力をしてきたので残念だ。しかしその一方で、この会は時代に応じた役割を果たし終えたのかもしれないという気持ちもある。ともあれ、会の歩みを記す場を与えていただき感謝している。


赤坂 桃子(翻訳家)