日本独文学会第59回春季研究発表会 予稿集 参照数:8646 |
第1日 5月3日(火)
ド イツ語教育部会企画講演(13:20~14:20) 31号館2F・208 外国語教育研究における方法論の捉え方 ─『学習ストラテジー』を例に考える 竹内 理(関西大学大学院外国語教育学研究科・外国語教育研究機構) 今回の講演では,外国語学習を成功に導くと考えられる学習方略(=学習方法)を,講演者がどのような手法を用いて解明しようと試みたかについて,研究の段階をおって詳細に説明し,このプロセスを通して,外国語教育学におけるこれからの研究手法のあり方について考えていくことにしたい。具体的には,ⅰ)研究課題の設定,ⅱ) 文献のメタ分析,ⅲ) 定義のあり方,ⅳ)研究対象や環境の限定,ⅴ) 質問紙法(既存方法)の限界,ⅵ)研究手法の複線化,ⅶ) 量的アプロ-チと質的アプロ-チの併存可能性,ⅷ) 学習環境に埋め込まれたデ-タ分析,ⅸ)各種理論との整合性検証,などを取り扱う予定にしている。また,時間が許せば,いままで認知的なスタンスを取り続けてきた講演者が,「足場」(scaffolding)の理論など,いわゆる社会構成主義的な考え方をなぜ取り入れようとしたのかについても,英語教育学における研究手法の歴史的変遷と関連づけながら言及していきたい。最後に,「外国語教育学である以上は,基礎研究のみに終始するのではなく,教育現場から課題を見つけ,教育現場へ還元し,そこから世界へ発信するような研究をおこなう必要がある」という講演者の外国語教育研究に対する考え方についても,少し述べていく予定である。
シンポジウムⅠ(14:30~17:30) A会場 纏う,あるいは,〈本質〉から遠く離れて Zum Sich-Kleiden, oder: weit entfernt vom Wesen 司会:神尾 達之 1999年,ドイツではClaudia Benthienの "Haut" が出版され,日本ではドイツ・日本研究所の協力を受けて「The Faces ofSkin/皮膚の想像力」と題された国際シンポジウムが開催された。フランス文学系の主導で『身体 皮膚の修辞学』が出版されたのは,その翌年のことだった。しかし,これらは日本のGermanistikに生産的な形で受容されることはなかった。「いっさいの見せかけから遠く離れて,本質の深みだけを求める」ファウストの末裔たちにとっては,これはまことに一貫した姿勢だった。だが,ファウストもまた大気を吸わざるをえない。現象と本質の二項対立はすでにニーチェにおいて十全に掘り崩され,表層における記号の戯れというタームも旧聞に属し,今や,「本質」とは異なる様態で平面の向こう側が表象され,それに「スーパーフラット」なる名称が与えられつつある。このような推移を考察することから「遠く離れて」いたGermanistikは,だからこそ,未発掘のマテリアルを蔵しているように思われる。本質病を美徳へと洗練するためには,それなりの排泄物が外部に放出されたはずだからだ。本シンポジウムは,鉱脈を探りあてるための最初の巡遊である。
1. 纏うことにおける平滑と条理 大宮 勘一郎 ドゥルーズ/ガタリは『千のプラトー』において,「平滑」と「条理」という概念対を提案し,前者を「戦争機械」の生成発展する空間,後者を「国家」によって構成される空間である,と定めている。理論上は区別可能なこの両者はしかし,具体的な制度的現実の観察においては,常に紛らわしく混交と相互反転を繰り返すものであるとされる。ゆえに両者の特性は幾つかのモデルによって説明されるが,そのうち「技術的モデル」において,「織ること」,「纏うこと」の二つの様態が論じられている。すなわち問われるべきなのは「纏うこと」と「脱ぐこと」ではない。裸体が平滑空間をなすわけではないのと同様に,衣服が条理空間をなすわけではない。むしろ人間は,衣服を脱ぎ捨てることによって条理空間的秩序に入り込むこともあり,纏うことによって条理空間的な秩序から離脱することもある。本発表は,「平滑」と「条理」という両概念に基づき,纏うこと/脱ぎ捨てること(つまりは現象と本質)の対立を仮象の対立として相対化し,また身分や性の有標性とは別に「纏うこと」の意味を探ろうとするものである。
2.顔を纏う 神尾 達之 観相学は表層と深層の照応を前提としている。18世紀後半,ラーヴァーターは表層から深層を読むことができると確信した。精神は顔に現れるというわけだ。このテーゼはその後,知のメインストリームのなかへと制度化されることなく,周辺部で変奏されながら(犯罪「学」,人種「学」,筆跡「学」)ある種の暗黙知として流通してきたが,21世紀初頭の「ビューティコロシアム」において過激な形で実証されてしまった。ただし,逆方向に。新しい顔を纏えば,精神もそれに対応して変容する(ことが信じられる)ようになったのだ。顔の意味論は失効する。顔はもはや〈内面〉からは有意的に結ばれない。皮膚は蔽いではなく,〈現/原場〉として拡がる。顔の表面が〈内面〉を構成するからだ。本発表では,デスマスクの表象を補助線として,この問題系の見取図を書いてみたい。
3.鏡像のメタモルフォーズ 廣瀬 浩司 〈本質〉への問いに関して,フランスの現象学者メルロ=ポンティは微妙な位置を占めている。本質直観の哲学者フッサールと「ポスト・モダン思想」の間で,「衣服を纏った本質」「襞」「裏打ち」「(紐の)絡み合い」などについて語る未完の著作『見えるものと見えないもの』はどのような可能性を秘めているのか。そのことをとりわけ「鏡像」の問題に焦点をあてて考えてみたい。メルロ=ポンティにとって鏡像とは〈見えるもの〉と〈見るもの〉,そして〈見えるもの〉と〈見えないもの〉のメタモルフォーズの場である。存在と現れの境界に生起する鏡像を媒介に,自己の身体は,他の身体や事物の断片を身に纏い,みずから変容する。この「纏う」という行為のまわりに,どのような問題が収斂しているのであろうか。メルロ=ポンティを出発点に,ラカン,アーレントなど周辺の思想家たちも参照しながら,私たちの身体の境界における「纏うこと」という出来事の系譜をたどり,たんなる「戯れ論」には終わらない鏡像論の可能性を探る。
4.プレ/ポスト・ワイマール的表層と可視性/触覚性 前田 良三 20世紀初頭から20年代に至る文化的言説が可視性をめぐる闘争として描き出されるはずだとすれば,そうした言説が期せずして身に纏う「触覚性」という衣装/意匠(モード)は,一般にワイマール的表層(JanetWard)として総括される都市文化の技術的表層性に対してどのような布置関係を結んでいるか――この問いをめぐって,ゲオルゲ派,クラカウアー,ベンヤミンを含む数名のテクストが参照される。
5.〈波打つ襞〉─平面/空間の世紀転換期─ 柳橋 大輔 1896年2月,リュミエール映画「港を出る小舟」を初めて眼にした観客の数人が映写後スクリーンに近寄り,これをステッキで突いてみる。――映画草創期の〈原光景〉の一つをなすこうした情景に潜勢する意味論を理解するにはしかし,その動因を映画のイメージの他とは比較にならぬ〈現実性〉に帰する標準的な映画史研究の説明だけでは充分ではない。運動する映像の誕生に写真以上に完全なリアリティの再現を見る単線的な図式とは異なる考古学的な検討を行なうべく,ここではまず映画の機能形態について同時代の美術史学的言説を,また被写体ないし主題をめぐっては当時勃興しつつあった新しい舞踊ならびにこれをめぐる批評や文学的形象化を参照する。例えばヴィーンの美術史家A.リーグルが触覚的客観性から視覚的主観性への推移として美術史を再定義した際,特にその契機を提供したのは平面と立体という異なる次元が同一の場で共存する浮彫という形象だった。布という平面的なメディウムにおいて生成する空間的な運動のイメージという点で映画と通底し,実際殆どすべての〈発明家〉たちにより撮影・提示された「サーペンタイン・ダンス」(L.フラー)は,他方で世紀転換期における〈表象〉システムの動揺を示す隠喩的形象としても機能している。本発表は初期映画という現象の周囲に揺れ動いていた襞の波打つ運動を跡づける試みである。
シンポジウムⅡ(14:30~17: 30) B会場 エルフリーデ・イェリネク-詩学と受容 Elfriede Jelinek - Poetik und Rezeption 司会:Walter Ruprechter・土屋 勝彦 Die
Verleihung des Nobelpreises für Literatur an die österreichische
Schriftstellerin Elfriede Jelinek im Herbst 2004 löste eine heftige
Debatte über das Werk und die Person der Preisträgerin aus. Dabei stand
wieder einmal letzteres im Fokus, geschürt durch zahlreiche Interviews
der Autorin, in denen sie ihre Unfähigkeit, den Preis in Stockholm
persönlich entgegenzunehmen, erklärte. Sosehr die Person Jelinek den
Marktmechanismen der Medien entgegen zu kommen scheint, sowenig gilt
das für ihr Werk, weshalb es auch in dieser Debatte unterbelichtet
blieb.
1. Zu Elfriede Jelineks literarischer Methode und Missverständnissen bei der Rezeption Keiko Nakagome In
der literarischen Sprache von Jelineks zwei Romanen „Die
Klavierspielerin“ und „Lust“ geht es um eine Konfrontation der
etablierten Semantik mit neu hergestellten Bedeutungen, die gegen die
normal verwendeten rebellieren sollen. Es scheint mir, dass Jelinek mit
dieser Herstellung einer neuen Semantik in ihrem Werk Gegenbilder zu
den trivialen Bildern des Alltags, der Gesellschaft, der Welt entwerfen
will.
2. Jelineks Sprachspiel Leopold Federmair In
diesem Referat versuche ich, den narrativen Dynamiken in Jelineks Prosa
nachzugehen. Bei der getrennten Analyse der rhetorischen Figuren und
des epischen Gehalts der Texte sollte sich herausstellen, dass die
Anstöße für die narrativen Dynamiken zumeist von den Möglichkeiten der
Mehrdeutigkeit und der phonetischen Assonanz kommen. Die „eigentliche“
Erzählung ist sprachlich überdeterminiert. Die Autorin errichtet über
der primären Erzählebene mehrfache Sinnschichten, die meist lokal
begrenzt sind, sich in anderen Fällen aber auch allegorisch ausdehnen
können. Der narrative Gehalt bleibt dabei meist überschaubar, das
Sprachspiel erarbeitet einen poetischen Mehrwert, der die eigentliche
Leistung der Texte ausmacht und den möglichen Genuss oder die kritische
Distanzierung von den Texten bedingt.
3. Die postdramatische Theatersprache von Elfriede Jelinek Itaru Terao Elfriede
Jelineks Theatertexte scheinen auf den ersten Blick Monologe zu sein.
Doch bei näherer Begriffsbestimmung zeigt sich, dass ihnen dafür etwas
Wesentliches fehlt. Es ist auf der jelinekschen Bühnenwelt nämlich ganz
unklar, wer zu wem was und warum sagt. Es gibt keine Handlung, keine
klar bestimmte Situation und keine Psychologie. Der Text von Jelinek
zeigt sich als unendlicher Wortschwall und unbegrenzte Rede. Die Sätze
sind kompliziert ineinander verschlungen und verführen uns in die
verwirrende Pluralität der Bedeutungsmöglichkeiten.
4. Von der „Nestbeschmutzerin“ zur Nobelpreisträgerin. Elfriede Jelinek und Österreich. Pia Janke Seit
1985, seit der Uraufführung ihres Theatertextes „Burgtheater“, wurde
Elfriede Jelinek in Österreich von Politikern, von der
auflagenstärksten Tageszeitung des Landes, der „Kronen Zeitung“, von
Kirchenleuten, Theatermachern und Leserbriefschreibern als
„Nestbeschmutzerin“ diffamiert. In den letzten beiden Jahrzehnten
bestimmten Skandalisierung und Personalisierung den öffentlichen Umgang
mit der Autorin.
5. Der Wiener Ton. Elfriede Jelinek und die (räumlichen) Grenzen des Verstehens. Christoph Bartmann Im
Gefolge der Nobelpreisverleihung an Elfriede Jelinek ist eine
Feuilletondebatte aufgekommen, in die auch die Nobelpreisträgerin
selbst eingegriffen hat. Auslöser der Debatte waren kritische (und in
Deutschland keineswegs unwidersprochene) Stimmen, die Jelineks Rang auf
den einer Wiener ‚Regionalschriftstellerin' beschränkt sehen wollten.
Jelinek, so der Tenor dieser Äußerungen, sei kaum mehr als eine
epigonale Vertreterin der spezifisch wienerischen - und außerhalb Wiens
nicht begreiflichen - Todes- und Untergangsrhetorik und habe den Preis
im Grunde als Platzhalterin des zu früh verstorbenen Thomas Bernhard
erhalten.
シンポジウムⅢ(14:30~17:30) C会場 18世紀にみる〈秩序〉 Über die »Ordnung« im 18. Jahrhundert 司会:浜本 隆志・浜崎 桂子 本
シンポジウムでの総合テーマは,18世紀における〈秩序〉一般の分析である。あるいは,18世紀の〈秩序〉が現象していると認識される事象をめぐる広範な分析である,と換言することができる。 a.教育論(モーリッツの教育テクスト) し かし,ただ単に個別テーマにおいて〈秩序〉をめぐるふたつの力の拮抗に着目するだけではなく,この力学のダイナミズムがどのように現象するかを明らかにすることで,総合テーマと関連させる統一的な指標とする。
1.子供のための秩序 ─カール・フィリップ・モーリッツ『子供の論理学』(1786)を例に─ 吉田 耕太郎 カール・フィリップ・モーリッツの『子供の論理学』Versuch einer kleinen praktischen Kinderlogik- welche auch zum Theil für Lehrer und Denker geschrieben ist(1786)は,主人公である少年が,家庭教師の教えに従い,様々な秩序を習得してゆく小説である。少年は,身の回りの事物を区別し整理することから出発し,最終的に,「一」と「多」といった論理概念の理解にまで到達する。副題のなかの「教師のために」という言葉が示しているように,『子供の論理学』は教育小説,厳密に言えば,読み物という体裁をとった子供向けの論理学の教科書であった。本発表では,この小説で扱われているもろもろの秩序を紹介し,当時の思考を規定した秩序の具体的な再構成を試みる。これは同時に,ライプニッツ・ヴォルフ学派の論理学からの影響にも言及することにもなろう。
2.人の顔を秩序づけること ─ラヴァーターの新しい個体観と復活論的「前成説」をめぐって─ 横道 誠 18世紀啓蒙の進展にともなって,世界のさまざまなものに「多様な個性」が発見されるなか,ラヴァーターの『観相学断片』の登場は,人間個人の個体性を尊重する学として脚光をあつめた。だが,それは個の多様性を整理し,秩序づける点で不可避的に人の類型化をも遂行することになる。19世紀以降,ラヴァーターの観相学はときにはコミカルな,ときにはグロテスクな展開をしながら生き延びてゆくが,ラヴァーターその人の背後には,人の顔と魂の照応説や敬虔主義の流れをくむ終末思想,そして「人の使命」とはなにかを問う神学的な主題が控えていたのがよく知られている。このような理論背景がラヴァーターの観相学のはたした秩序の破壊と秩序の維持を全面的につかさどっているといえるが,今回はそれを,これまでのラヴァーター研究ではほとんどあつかわれなかった同時代の生物発生論とのかかわりからあとづけたい。そのさい,初期ラヴァーターが全面的に依拠した18世紀スイスを代表する総合的思想家シャルル・ボネの復活論と,その礎石をなす「前成説」が最重要ポイントとなる。
3.位階制という秩序維持装置 ─秘密結社の場合─ 北原 博 18世紀は秘密結社が興隆した時代であるが,その理由のひとつには,既成の社会秩序では収まりきれなくなったものを,秘密結社という別の秩序が支配する仮想空間によって,部分的にせよ処理することができたためであろう。この報告では,秘密結社内部の秩序である位階制をもとにして,当時の社会秩序に対して秘密結社がどのような機能を有していたのかを考察する。
4.未開の自然にある庭園 ─フォルスター『世界周航記』の自然描写─ 森 貴史 ゲオルク・フォルスターが、非ヨーロッパ世界の自然をテクストとして『世界周航記』に記述するばあい,そこには,ある種の操作がおのずからおこなわれている。つまり,初めて眼にする未知の自然あるいは混沌とした自然を,既知の自然へ,秩序整然とした自然へと構築する操作である。このさい,フォルスターにおいては,ヨーロッパの「庭園」や「農園」といった概念が,秩序への変換装置として機能している。そして,自然が混沌から秩序へと再構築された結果,新たにヨーロッパ風に書き換えられた自然としてテクスト空間に分類/配置される。すなわち,「庭園」というヨーロッパの解釈格子を適用することによって,自然の内実や性質の書き換えをおこなっているのだ。本発表はいわば,無秩序な自然を秩序ある自然へと飼い慣らす,この変換過程のメカニズムを分析することを目的とする。ただし,主眼となるのは,この変換過程において変換がうまく機能している記述ではなく,変換できない,あるいは変換に失敗した記述である。秩序化し,取り込もうとする作用と,秩序を拒否し,逃れようとする作用が拮抗する場としての〈秩序のほころび〉に着目することで,総合テーマの本旨に寄与することとしたい。
シンポジウムⅣ(14:30~17:30) D会場 ドイツ語研究と言語類型論 ─共通の展望に向けて Erforschung des Deutschen und Sprachtypologie: Entwicklung einer gemeinsamen Perspektive 司会:岡本 順治・小川 暁夫 個別言語研究としてのドイツ語研究は,実証性に優れた,それ自体一貫した記述を必要とする一方で,自己充足に留まらず,言語類型論が最終目標とする普遍性の発見と個別性の理由付けにも貢献しなければならない。近年の言語類型論は,言語特徴のタイプ分けや同一あるいは類似の言語現象の単なる突き合わせに終わらず,機能的・認知的観点からいわばカテゴリー横断的に人間言語の普遍性・個別性を見極めようとしている。そこではまた,各々の文法カテゴリー・文法構造の機能が相互に独立していると見られるのではなく,カテゴリー間・構造間の相対性・連続性において捉え直されている。このような研究動向を背景に,本シンポジウムでは,幾つかの重要と考えられる文法構造の連続性・相対性,具体的には埋め込み構造における句と節の分岐点,対格目的語(とりわけ同族目的語)の出現をめぐる自他の連続性,与格構文とその隣接構文との関連,非人称構文の人称構文に対する位置付けについて議論する。それらを通じて,ドイツ語研究と言語類型論との共同作業の可能性と展望を示したい。
1. 補文の類型論とドイツ語不定詞 藤縄 康弘 類型論的見地から補文の体系性を取り上げた Noonan (1985)によれば,ある言語が直説法による補文と,それとは対立的な補文(接続法の補文,不定詞補文,名詞化など)とを区別する場合,その区別はまず第一に,母型文の動詞が補文の時間的,認識論的,または談話的依存度(以下「TED依存度」)を規定するか否かに基づき,さらに下位区分がなされるとしたら,TED依存度が規定される補文でそれが行われるという。これは,補文化に中心と周辺の差があることを示唆する:中心には,TEDの面で母型文から独立した補文があって,ほぼ言語の別を問わず直説法で示されるが,周辺に行くに連れ――つまり,TED依存度が高まるに連れ――補文の表現方法は多様化し,最終的には文でない表現にまで到達し得る。こうして補文は,直説法による完全な文からの縮小化の道を辿るというわけである。
2.対格目的語の連続性と言語類型論 ─同族目的語を中心に 島 憲男 本発表では,個別言語としてのドイツ語研究を言語類型論の研究成果の中で解釈することを通じて,ドイツ語研究における言語類型論的視点の有効性・有用性を示すと同時に,ドイツ語研究の側からも言語類型論に寄与する可能性を提示することを目標とする。具体的には,ドイツ語の同族目的語(kognatesObjekt)を取り上げる。同族目的語とは,「依存している動詞と語源的あるいは意味的に関連する対格文肢」(Bußmann2002)で,まずその性質や生起の可能性を当該文中の動詞や文全体の他動性(Transitivität)との関連で概観する。そして同族目的語を含む文が,対格目的語を含む他動詞文(統語的には対格目的語を支配し,意味的には当該の動詞行為を直接受ける共演成分・補足語としてコードするような文)と対格目的語の生起しない自動詞文の持つ様々な特性を部分的に共有していることを示す。その上で,英語や,オーストラリア6言語(Austin1982)などの同族目的語を分析した他の研究成果を援用しつつ,自動詞・他動詞の対立や対格目的語の生起条件を二項対立的に捕えるのではなく,むしろ言語類型論的な枠組みの中で線状的な連続体(Hopper / Thompson 1980, u.a.)として捕えることの意義を示す。
3. ドイツ語の与格の統語論と類型論的与格像 黒谷 茂宏 与格及びそれに類する格は遍在性が高く,言語類型を問わず発見される。何故か。逆説的ながら,それは与格が言語類型にとって本質的ではないからである。だからと言って与格が言語体系そのものにとって不要なわけではない。むしろ正反対であろう――与格が機能過多である言語は多い。日本語も,ロマンス諸語も,グルジア語もそうである。言語類型を規定する根幹的統語のみで森羅万象を写し尽くすことは困難であり,どうしても遺漏が出るが,この遺漏の領域には言語類型を越えて共通性がある。そしてこの領域こそが第三の格,即ち与格の中核的な機能領域なのである。ここに類型論における与格研究の重要性,そして個別言語の与格研究における類型論参照の有効性の理由が存在する。
4. 非人称構文の類型と機能 ─人称構文との連続性において 小川 暁夫 言語研究において,いわゆる非人称構文(impersonal construction)は人称構文(personalconstruction)に比して明らかに周辺的にしか扱われてこなかった。本発表では対照類型論的観点から,非人称構文を人称構文から独立したものでなく,それとの相対的な連続体として位置付けることを試みる。
口頭発表:文学1(14:30~17:20) E会場 司会:丸本 隆・石井 道子
1.『エネアス物語』における冥府行 ─霊魂観念に見受けられる中世の古代受容のかたち─ 浜野 明大 ウェルギリウス(P. VergiliusMaro)のトロイア人,アエネアース放浪の旅からローマ帝国建国までを物語った古典英雄叙事詩『アエネーイス(Aeneis)』は、12世紀においていわゆる「古典小説(Antikenroman)」形式で,まずフランス語の『エネア物語(Romand'Eneas)』に受容された。そこからフランス原典の土台をもとにして,中世ドイツ作家であるハインリヒ・フォン・ヴェルデケ(Heinrichvon Veldeke)がドイツ版『エネアス物語(Eneasroman)』に受容した。
2.何故ハゲネはジーフリトを殺したのか 野内 清香 『ニーベルンゲンの歌』において,ハゲネによるジーフリト暗殺は叙事詩前半の最大の山場であり,また後半のクリエムヒルトによる苛烈な復讐劇の駆動力となる極めて重要な事件である。しかし,叙事詩の素材となった伝説の古い型が見られる北欧の『エッダ』や『ヴォルスンガ・サガ』では,ハゲネに相当する人物はむしろ暗殺を止めようと忠告している。時代の移り変わりとともに伝承が変化し,ハゲネはジーフリト殺しの役割を担うことになるが,それによって彼の人間性については単なる剛胆な勇士というだけでなく,残酷で卑劣なイメージが加わることになった。この一見矛盾した人物像とその行動を読み解く鍵となるのは,彼の恐怖を呼び起こす外見,特に鋭いまなざしの描写である。それはより新しい伝説を伝える『ティードレクス・サガ』において,ヘグニ(ハゲネ)が妖精の血を引いているために恐ろしい容貌をしており,片目しかなかったとされることに由来しているが,さらに遡れば「片目」は,スペインのワルテル伝説と関係がある。ワルテル伝説においてフン王の宮廷で人質となっていたという過去を,ニーベルンゲン詩人はハゲネの人間性を確立するための重要な要素として用いている。ハゲネの行動は全て,若い頃の異国での暮らしにより生じた故郷への異常なまでの忠誠あるいは執着に起因する。ブルゴント王妃の名誉を傷つけたジーフリトを殺したのも正にそのためなのである。
3.北欧のアーサー王伝説 ─クレチアン,ハルトマンとの比較から─ 林 邦彦 13世紀にはいくつものフランス語宮廷叙事詩が北欧に伝えられ,特にアイスランド語に翻案されたものは,同時期のアイスランド語文学作品群の中で,騎士のサガ(riddarasögur)と呼ばれるジャンルを構成するに至っているが,その中にはハルトマン・フォン・アウエのErec,Iweinの原典とされるクレチアン・ド・トロアの作品 Erec et Enide,Yvainも含まれており,それぞれアイスランド語ではErex saga,ĺvens sagaと呼ばれる作品となって遺されている。これらの作品はいずれもアイスランド・サガ特有の簡潔な描写手法で書かれたものであるが,クレチアン作品では動機が曖昧なままにされていた登場人物の言動や,恋愛上の問題としてのみ扱われていた事柄について,サガ作品ではそれに関わる人物ならびにその社会生活との具体的な利害関係が,登場人物の発言や作者の記述によってはっきりと提示されていることが多く,主人公が作品中で対峙する敵対者達の悪行や,その主人公に対する要求についても,箇所によっては原典のクレチアン作品には全く見られない要素を用いて具体的に述べられているところもある。またこのサガ作品の主人公達には当初から他者に対し自らの失敗についてさほど弁解はせず,それらを比較的素直に認める傾向が見られる。このようなクレチアン作品との相違から明らかとなる騎士のサガの作者の人間観や文学観は,同じくクレチアン作品を翻案したハルトマンの場合とは,共通する部分もある一方,明らかに異なる面も持つものである。
4.デメートリウスの妄想 坂本 貴志 シラーは『デメートリウス』(1805年絶筆)を『オルレアンの乙女』と対をなす作品として構想したという。ジャンヌは超越的なるものからの啓示を受けて,フランス王権の危機を救うべく立ち上がる。対して,デメートリウスは王位継承者として簒奪された王位の回復を画策する。ただ彼は,啓示によってではなく,政治的な詐欺瞞着の犠牲者として,自らを皇子であるとする誇大妄想を抱くに至った。未完に終わった『デメートリウス』では,妄想からさめて自らを僭称者であると自覚したデメートリウスが,モスクワ市民の歓呼のもと,(偽)王として入城する場面が全曲を通じて最大の見せ場とされる。そこでアイロニカルに演出されるのは,僭称者とは知らずにデメートリウスを歓呼して迎えるモスクワ市民の「熱狂」であり,また,僭称者が引き受ける王権が根本的に孕む「無」である。王権が社会共同体の統合の中心であるという視点は,シラーの時代に疑問視され,すでに過去のものになりつつあった。デメートリウスのモスクワ入城の場面で観客は,僭称者の目線で,民衆の熱狂的な欲望の向かう中心が,実は「無」に他ならないことを象徴的に知る。そしてこの「無」にはまた「無」なる僭称者が陸続と帰り来ることができる。本発表では,シラーの遺稿断片の分析から,書かれることのなかった「デメートリウスのモスクワ入城の場面」を再構築し,そこにおけるデメートリウスと民衆のそれぞれの妄想と,デメートリウスの視野にひろがるdas ungeheure Moskauの意味を考察するのが,主眼である。
5.水の精キューレボルンの表現・位置づけの変容 ─フケーとE.T.A. ホフマンのオペラ『ウンディーネ』をめぐって 三澤 真 「真のオペラでは,音楽が文学の必然的な所産として,文学から直接湧き出している」――E.T.A. ホフマン(『詩人と作曲家』1813)。
ポスター発表(13:30~16: 30) F会場
学習者のドイツ語音声に見られる言いよどみ・ポーズの分析 林 良子 第二言語音声において最も顕著に現れる韻律的特徴の一つに,言いよどみの際に起こるサイレント・ポーズがある。学習者の発話には,過度のポーズや不適切なポーズが生じ,それが聞き手への発話の流暢性を下げているという指摘がこれまで多くの目標言語においてなされてきた。本発表では,現在構築中の,ドイツ語学習者6名による読み上げ文(100文)および自由発話(自己紹介)の音声データベースを用い,ポーズの分布とその原因について検討した。その結果,発話中の不自然なポーズ生成は,日本人学習者にとって発音困難な母音(ウムラウトなど)や,音連続,単語の長さ,単語親密度など様々な要因によって起こることが観察された。また,学習者の発話の特徴として,母語話者が全くポーズを取りえない単語間でのポーズが観察され,このようなポーズが聞き手への流暢性を下げる要因であると推測された。本ポスター発表においてはさらに,現在進行中の母語話者による評価実験結果とも照らし合わせ,総合的な分析結果を発表する予定である。
ドイツ児童文学・絵本の挿し絵画家エルンスト・クッツァ (1880-1965)の足跡を辿って 新藤 紀子 1899年19歳でウィーンへ上京してから1965年に市内18区の自宅でこの世を去る直前まで,画家エルンスト・クッツァの絵筆は止まるところを知らなかった。特に全盛期の1920年代から30年代にかけて,この画家の絵を一度も目にすることなく大人になった子供はいなかったと言われるほどその名は広範に知れ渡っていた。当時の人気詩人アドルフ・ホルストや少年・少女小説の大家ヨゼフィーネ・ズィーベらの作品に描いた挿し絵は現在でも再版本として書店の店頭に並んでいる。しかし,その活躍ぶりと人気の高さにもかかわらず,なぜ今まで彼の人生や作品が研究者の手によって取り上げられることがなかったのか。この疑問をきっかけとして,10年程前からこの画家について調べることとなった。その後研究を推し進めていくにつれ,彼の「楽しい挿し絵の世界」からどんどん遠ざかり,思わず歴史の深みへ足を踏み入れることになったのである。これまでに得た,文書記録館,図書館,美術館などに加え探し当てた家族や親類,知人などからの数多くの貴重な資料を整理,読み解くうちにこの「愉快な人気者」のシビアな現実,2度の世界大戦とそれに伴う衝撃的なズデーテンラント,クッツァにとっての「故郷」の喪失が見えてきた。さらにクッツァの挿し絵は第三帝国時代にも数多くの教科書において使用されたことから,現在でも一部でクッツァは当時の政権の賛同者ではなかったかとまでささやかれることがある。しかし調査から,結局それが病気や失業に喘ぐ家族を養うための必死の選択であった事実が浮かび上がってきたのである。
独作文自動添削システム「サッと独作!」の開発と学習スタイル調査 加藤 周作/石司 えり/太田 達也 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)では教科書 „Modelle“を中心としたコミュニカティブ・アプローチに基づく発話重視のドイツ語の授業が行なわれている。教室での授業は会話によるやり取りが中心なので,文法,単語,文型練習などにあまり時間をさけないのが現状である。そこで SFCドイツ語研究室では,単語練習や文型練習,独作文練習のための ITを利用した自律学習教材を開発し,運用している。
第2日 5月4日(水)
シンポジウムⅤ(10:00~13: 00) A会場 〈ドイツ語教育部会企画〉 内からの視点・外からの視点 ─日本における「ドイツ語教育研究」の位置づけと役割 Innenperspektiven, Außenperspektiven-Ein Symposium zur Profilbildung der wissenschaftlichen Disziplin DaF in Japan 司会:Michael Schart・星井 牧子 討論者:池田 信雄/Frank Mielke/清野 智昭/前田 良三 DeutschalsFremdsprache(DaF)という概念は,「理論的研究」「実際のドイツ語授業」やその「教授法」というように,使用者によって意味の異なる用いられ方をしている (Helbig et al. 2001: Ⅴ) 。さらにはドイツ語圏でもそのあり方をめぐって,さまざまな議論がされていることから明らかなように (Helbig et al. 2001:1ff.),Deutsch als Fremdsprache (DaF) とは何かについて,かならずしも共通理解がなされているとはいえない。
シンポジウムⅥ(10:00~13:00) B会場 カール・クラウス 仕事とその影響の諸相 Karl Kraus. Aspekte des Werks und seiner Wirkung 司会:Eberhard Scheiffele・相澤 正己 19世紀末から20世紀初頭にかけて,ウィーンを中心に活動したカール・クラウス(1874-1936)の仕事は,最近の世界情勢と関連して,新たにアクチュアリティをもつものとして再評価されている。タンツテアーターの創始者のひとり,ヨハン・クレスニクは,コソボ紛争の記憶も生々しい1999年,ナチ時代に強制労働者によって建設されたブレーメンのUボート掩蔽壕で,クラウスの反戦戯曲『人類最期の日々』を演出,上演した。これは,大きな反響を呼んで,2004年までロング・ランされた。9.11以降では,元国連大量破壊兵器査察官スコット・リッターが,著書『イラク戦争』の冒頭にジャーナリズムの戦争責任に関するクラウスのアフォリズムを掲げた。さらに,ニューメディアの成長を背景としても,クラウスのアクチュアリティは高まっている。インターネットを介した個人ジャーナリズム「ブログ」に見られる問題意識と手法が,クラウスの個人誌『炬火 (DieFackel)』の延長上にある,という指摘もなされている。クラウスが構想したことは,むしろこれから現実のものとなっていくのかも知れない。
1.カール・クラウスのことばをめぐるアフォリズム 堺 雅志 カール・クラウスの文体の特徴の一つはアフォリズム的要素である。それは,彼が編んだアフォリズム集に,『炬火』誌上に掲載したアフォリズムばかりでなく,著作中の一節を抜粋して転載したことからも首肯できる。彼のアフォリズムが,テクストとしてのIsoliertheitとともにKotextualitätをも深処に有するという事実は,ロマン派以降の散文の特徴をなす「断片性」をレファレンス可能なものとしてテクストに取り込むという新しい散文形式のジャンルを開いたものと解しうる。本発表では第一に,クラウス以前と以後のジャンルとしてのアフォリズムを歴史的に概観し,この文脈でのクラウスの位置づけを行う。その際,同じ散文形式からなる小説に対してクラウスが取った距離とアフォリズムへの傾倒とを対比することを通じて,彼の言語芸術観を対比的に提示する。そして第二に,彼の言語芸術観を支える言語観を提示する。彼が言語に関して言及したアフォリズムは,アフォリズムがそもそも持つ内省的性格ゆえに彼の言語観を繙く上で極めて重要な手がかりである。そこに見られるクラウスの二分法的思考を整理してゆくと,彼が意図した言語芸術および言語そのもののあるべき姿が浮かび上がる。これはクラウスの「根源」概念と密接につながる「ことばの姿」という概念に収斂される。本発表では,これが対比の技法によって具体化される道筋が素描される。
2.カール・クラウスの戯曲『人類最期の日々』にみる諷刺のパフォーマティヴィティ 河野 英二 カール・クラウスの戯曲『人類最期の日々』は,厖大な登場人物たちの台詞の多くが第一次世界大戦における戦争報道の引用モンタージュから成り,それを彼自身が朗読することによって「初演」が行われたという特異な来歴をもっている。従来の研究では,その記録演劇やアレゴリー劇としての形式的な側面,あるいは反戦劇やイデオロギー批判劇としての内容的な側面に主として焦点が当てられてきたが,そこで伝統的な劇文学からのどのような創造的逸脱が図られているのかが正当に評価されてきたとはいいがたい。見落とされてきたのは,何よりも,この戯曲における言語使用が次のような点で顕著な独自性を示していることなのである。まず,引用された戦争翼賛の言説が戦争批判を遂行するべく機能転換されており,併せてその「現実性」と「虚構性」の区別も宙吊りにされていること。さらに,書字の「反復可能性」を特徴とする引用文には声による儀礼的な上演を通じて出来事的な一回性を帯び,言語行為論が主題化したような状況介入の「力」をもつポテンシャルが付与されていること。即ち,ここでの言語は何重もの意味でその「パフォーマティヴィティ」を際立たせられているのであり,この傾向がクラウスの諷刺自体とその「権威」をも特徴づけていると考えられるのである。黙示録的な意匠に託されたこの戯曲の「悲劇」性もまた,マス・メディア状況下で顕在化した「人類」の言語に対する不可避的な盲目性の問題と不可分であるという意味で,パフォーマティヴィティの主題と切り離せない。そして,神的な存在がドイツ皇帝からの引用句によって自らの無力を宣言する結語に至り,「世界劇場」文学のパロディーとも見なされうるこの戯曲は,クラウスの諷刺における「コスモロジー」の所在を暗示することになる。
3.カール・クラウスの「文芸劇場」と文学的伝統の引用 安川 晴基 メディアの権力の先駆的批判者と目されるクラウスの方法上の革新性は,その「言語風刺」における意味の領域から言説の次元への移行,「引用」の文献学的秘教性から言説批判的公教性への機能転換にあった。「ジャーナリズムにおけるアヴァンギャルド」(ベンヤミン)と呼ばれたクラウスの文化批判が,他方で,クラウスの文化保守主義的傾向と表裏一体をなしていることはよく指摘されている。クラウスの文化保守主義において歴史は「自然」として措定された文化的記憶(文学的伝統)の汚濁・喪失の過程とされる。文化的記憶のアルヒーフとしての言葉というロマン主義以降の観念は,クラウスにおいても見出すことができ,言葉をめぐるクラウスの連想圏は同一性を保証する「自然」,「根源」,「女性」,「母」といったメタファー群によって構成されている。1916年から1925年までの「装飾から自由な劇場」を前身とし,1925年以降「文芸劇場」と銘打たれ晩年に至るまで断続的に行われたクラウスの朗読会は,「開かれた眼と閉ざされた耳に向かって死せる奇跡を繰り広げる舞台装置」を駆使した同時代の劇場演出のアンチテーゼとして構想され,「穢された文芸」を「再び神聖なものとする」ことを綱領としている。書物と朗読者の「声」へと還元された「文芸劇場」は,文学的伝統に体現された文化的記憶を想像の「劇場」という儀礼的空間に囲い込む実践であり,過去の文学作品の「朗唱=再召喚」(Re-Zitation)の行為による「現前の産出」(グムブレヒト)の装置とみなされ得る。メディア言説批判において同一性の破壊を目指した「引用」は,「文芸劇場」において同一性の復旧を目指す実践へと再び機能転換される。
4.1930年前後におけるクラウスのオーストリア社会民主党に対する(言語)批判 鈴木 伸一 第一次大戦直後に出されたクラウスの支持声明にも見られるように,両大戦間期におけるクラウスとオーストリア社会民主党との関係は,当初は友好的・協力的なものであった。実際,大戦間期には社会民主党系の朗読会も頻繁に開かれ,党内にもクラウスの熱烈な支持者が数多くいた。また,労働者階級に対するクラウスの共感や感情移入は,党との関係が悪化した後も変わらずに続いている。しかし,20年代に入ると,党の方針とクラウスの活動や価値観との齟齬が顕在化するようになる。クラウスによる社会民主党批判は,27年の事件を契機として一時中断されるが,その後の国内外の政治情勢を背景に再開され,32年には『Hüben undDrüben』が発表されるにいたる。それ以前にも,クラウスは党の「ブルジョア化」や文化政策等について様々な批判を展開しているが,『HübenundDrüben』では社会民主党からの脱党が繰り返し要求されており,両者の断絶が決定的なものとなっている。また,常套句の乱用や,言葉の意味内容からの乖離という視点からも社会民主党が糾弾されていることは,クラウスによる一連のジャーナリズム批判にもつながっている。これらのことからも分かるように,クラウスの社会民主党批判は,彼によって行われた(市民)社会批判全般との連関で捉えるべきであり,クラウスの思想的軌跡を辿るうえでも無視し得ない問題である。
5.クラウス研究にとってのベンヤミン『カール・クラウス』 山口 裕之 ベンヤミンのエッセイ『カール・クラウス』は,マルクス主義的志向が顕在的に示される彼の30年代の著作のなかでも,3章からなるその構成そのものによって「弁証法的唯物論」がコンパクトなかたちで提示されているという点で,特別な重要性をもつものである。しかし,このエッセイは文字通りカール・クラウスについて書かれた文章でありながらも,まさにベンヤミンがこのなかで述べているように,いわばクラウスをもとのコンテクストから引用によって取り出し,新たな連関のうちに組み替えることによって,ベンヤミン自身の思考を提示するという性格を強く持っている。クラウスについて語りながらも,ここで描き出されているのはあくまでもベンヤミンの思考像である。その意味でこのエッセイは,クラウスについて述べられた同時代人のドキュメントとしての重要性は認められながらも,クラウス研究のコンテクストにおいては,扱いに困るテクストであり続けてきたように思われる。
シンポジウムⅦ(10:00~13: 00) C会場 ドイツ語辞書の歴史と現在 Deutsche Lexikographie in Geschichte und Gegenwart 司会:飯嶋 一泰・高田 博行 ドイツ語学習・教育はもとよりゲルマニスティク研究の基本ツールとして欠かせないドイツ語辞書は,総合的なものから特殊なものまで,選択に迷うほど多数刊行されている。また,近年ではCD-ROMや電子辞書,ネット辞書も一般化し,編纂法・検索法にも大きな変化が見られる。しかし,今日我々が手にしている多様な辞書も,Lexikographieの長い歴史的積み重ねの上にはじめて出来あがったものである。本シンポジウムでは,近代ドイツ語辞書の出発点ともいえるアーデルング,最初にして最大の語史的辞書であるグリム,一巻本ながらグリムとともに不可欠の語史的辞書パウル,最初の本格的ドイツ語語源辞典で今なお改訂を重ねているクルーゲ,ドイツ語正書法の普及に貢献したドゥーデン正書法辞典,そして,長年「標準発音」の指針となってきたドゥーデン発音辞典を取り上げ,各辞書の特徴(と変遷),それらが各時代において演じてきた役割について考察する。報告に際しては,一般論ないし抽象論に終わることがないように,各辞書から具体的にいくつかの見出し語を選び出し分析するという作業を通じて,それぞれの辞書の全体像を浮き彫りにするよう努めたい。一連の報告および討議から,ドイツ語圏における辞書記述の伝統性・連続性,そして今後の問題点が少しでも明らかになれば幸いである。
1. アーデルングの『ドイツ語辞典』 ─18世紀の言語的日常を再構成する 高田 博行 近年のドイツ語史研究において,語用論的・社会言語学的観点はますます重要な役割を演じてきている。本報告は,ヨハン・クリストフ・アーデルングの『文法的・批判的高地ドイツ語辞典』全4巻(1793-1801年)における記述から,市民階級が抬頭し始めた当時の言語的日常を再構成しようとするものである。辞書の見出し語に与えられている「社交的」,「上品」,「日常的」,「低俗」等の文体標識から,当該の単語の語用論・社会言語学的位置づけが可能となる。また例えば,18世紀において「親密さ」(Vertraulichkeit)という概念は地位や能力が同一である二者間で成り立つ愛情ある関係を指したが,「礼儀正しさ」(Höflichkeit)は本来的に地位や能力が二者間で異なることを意識したうえで müssen Sie mir noch versprechen.というmüssenを用いた依頼文やFolgen Sie mir doch!のようなdochを用いた命令文は「親密さ」を前提とするものであり,他方上位の身分の話し相手に対してはSie を用いる代わりに Dieselben haben mir befohlen. のように距離を置いて表現したり,mit Erlaubnisという表現を用いてから異議や反駁を挟むことが「礼儀にかなった」こととされた。ただし,etwas in hohen Augenschein nehmenのような表現は,アーデルングから見ると「宮廷語の誇張した礼儀正しさ」によるものである。
2.グリムの辞典とパウルの辞典 ─学術的と民衆的 下宮 忠雄 資料:Grimm, Deutsches Wörterbuch (32 Bde. 1854-1961; リプリント縮刷版 33 Bde.1984); Paul, Deutsches Wörterbuch (1897, 3.Aufl. 1921, 8.Aufl. 1981,10.Aufl. 2002)
3.クルーゲの旧版と新版 ─語源辞典に求められるもの 飯嶋 一泰 クルーゲ (Friedrich Kluge) の『ドイツ語語源辞典』は1883年の初版刊行以後,改訂に改訂を重ね,現在はElmar Seebold による24版(CD-ROM付き,2002年)が出回っている。Seeboldによる改訂は22版(1989年)以降であるが,以前の版とは全く別の本といっても良いほど様相を異にする。まず何より,パウルの『ドイツ語辞典』との役割分担という理由で,記述の中心を語の起源(根源語源)に置き,言語史的・文化史的記述(語彙史語源)を大幅に削除しているのが目立つ(例:Wein, Käse, Mai)。次に,それとも関連するが,先代の改訂者 Walter Mitzka が盛り込んだきめこまかな言語地理的情報が,徹底的に切り捨てられている(例:Kartoffel, Frühling)。また,見出し語選択における古語・雅語中心主義からの脱却が図られ,現代の口語・俗語や特に外来語を相当数採用している(例:Aids, Vamp, Libero)。さらに,コンピューターによる編纂とCD-ROMでの検索を考慮した記述形式の画一化も,新たな特色となっている。その他,便利な(しかし不完全な)事項索引の廃止等々ドラスチックな改変が目立つ。全体として,新版クルーゲは,統一の取れた,不確実な仮説の比較的少ない,(たぶん)精密度の高い辞書となっているが,一方で英仏の語源辞典に求めがたい「読んで面白い」辞書という魅力を失ったと言えよう。いまだに旧版が手放せない所以である。
4.ドゥーデン正書法辞典の変遷 中山 豊 ドゥーデン正書法辞典の変遷を以下の5期に分けて概観し,現在失敗に終わりつつある正書法改革の問題点を検討することにより,正書法のあるべき姿も考えてみたい。
5.ドゥーデンの発音辞典 ─標準発音が持つ意味とその規範性 高橋 秀彰 ドイツ語発音辞典として今日でも版を重ねているのはドゥーデン第6巻が唯一で,「正しい発音」のバイブル的存在になっている。
口頭発表:文学2(10:00~12:15)D会場 司会:岡田 素之・中村 采女
1. Das Motiv des mittelalterlichen Totentanzes in Thomas Manns „Der Zauberberg“ Eva Ottmer Der Totentanz des europäischen Mittelalters ist ein bisher wenig beachtetes Leitmotiv in Thomas Manns Der Zauberberg. Die im 15. Jahrhundert im Zusammenhang mit der Pest auftretende Kunstform thematisiert in Wort und Bild die Konfrontation mit dem Tod, der, personifiziert als Knochenmann mit Stundenglas und Hippe, die Vertreter aller gesellschaftlichen Stände ohne Unterschied in seinen Tanz zwingt. Alle typischen Symbole des Totentanzes sind im Zauberberg vertreten. Thomas Mann führt nach mittelalterlicher Vorlage die Themen Musik, Tanz und Tod leitmotivisch zusammen. Im Unterkapitel Totentanz wird der Romanheld gar selbst zum Todesboten und macht einen Rundgang quer durch die Gesellschaft der Sterbenden. In der verkehrten Welt der Walpurgisnacht spiegelt sich eine Entwicklung der Totentänze im 17. Jahrhundert wider, wo der Tod plötzlich mit der Gestalt des Narren identifiziert wurde. Hans Castorps eigener Tod wird ebenfalls durch Motive des Totentanzes angekündigt. Sein verstorbener Vetter Joachim erscheint als Geist in der Felduniform des Ersten Weltkrieges, trägt also die Merkmale des Berufsstandes, in dem Hans sterben wird - eine typische Variante der älteren Totentänze. Schließlich führt Mann das Motiv der Sanduhr ein zum Zeichen, dass die Zeit des Helden abläuft. Das Zeitmaß der Lebenden, Taschenuhr und Kalender, wird abgelöst durch das Zeitmaß des Todes: die Stundenuhr.
2. イロニーとデモクラシー ─トーマス・マンのイロニーの思想史的再考 山室 信高 トーマス・マンのイロニーはマン個人のナルシスティックな性向に根差すものとして,あるいはロマン主義的イロニーの伝統を引くものとして,しばしば辛辣な批判に曝されてきた。本発表はマンのイロニーを個人の気質や概念の系譜においてではなく,広く同時代(第一次世界大戦からヴァイマル共和制にかけて)の思潮において見直そうとするものである。その際,当時特にアクチュアルな思想課題であったデモクラシーとの関係を探りたい。思想史の流れに沿い,以下の三点について論じる。
3.カフカとシュレーバー ─カフカの『巣穴』とシュレーバーの『回想録』─ 河中 正彦 フロイトの症例研究「自伝的に記述されたパラノイアの症例に関する精神分析的考察」で知られるダーニエル・P・シュレーバーの『回想録』とフランツ・カフカの『巣穴』を比較する試みは,まだなされていない。例えばライナー・カオスは『物語られた精神分析』で,根拠も挙げずにカフカをパラノイアと断じているが(C. Winter 1998, S. 60),カフカを保留なしにパラノイアと診断することはできない。しかしカフカがパラノイアに最も近づいた作品があるとすれば,それは『巣穴』であり,この作品に主題的に現れる異様な〈Zischen〉は,またシュレーバーが聴いた「砂時計からこぼれる砂の音」のような〈Gezisch〉(Ullstein 1973, S. 318)と酷似している。シュレーバーは「他の人にとっては,〈声〉は断続的なもの」なのだが,「私の場合,〈声〉のおしゃべりの休みなどまったくない」(S.317)と述べている。カフカの主人公にとっても〈Zischen〉が,連続しているのか,断続的なのかは大きな問題であった。カフカは『遺稿Ⅱ』の別の断章(NII, S. 86)でも同じ問いを立てている。シュレーバーは「声のテンポが遅くなる」と,それが「個々の語の識別し難い」〈Zischen〉として聞こえると述べている(ibd., S. 318)。〈声〉と〈Zischen〉の関係の秘密を漏らす,この証言は極めて啓示的である。カフカの最晩年の狂気に膚接した鬼気迫る『巣穴』の世界は,ただカフカをシュレーバー症例の鏡に照らすことによって明らかとなろう。
4.〈息〉のみちのり ―パウル・ツェラーンの「息の転回」について 田中 亜美 パウル・ツェラーンのビュヒナー賞受賞講演『子午線(Meridian)』には,「息(Atem)」および「息の転回(Atemwende)」の語がしばしば登場するが,これらは後期詩群においても頻出するモチーフである。「息」は有機性(Natur)に基づく運動ではなく,無機物(Kunst),死の領域にねざしており,それが「語と息を詰まらせる」「息の転回(Atemwende)」だとされる。「息」に纏わる形象は詩作の原理に結びつけられる点に特徴があり,メタ詩の立場から考察される必要がある。
口頭発表:語学/ドイツ語教育/文化・社会(10:00~12:50) E会場 司会:高橋 順一・室井 禎之
1.心態詞malの用法再考 ~malは常に丁寧さを生むか~ 筒井 友弥 心態詞malの機能を検証するため, 発表者は, 「路上で時間を尋ねる」という発話コンテクストのもとで,ドイツ語母語話者20人に対してアンケートを行った。聞き手としては,「見知らぬ人」,「教授」,「友人」を設定した。その際に注目した例文は以下(1)と(2)である。
2. Kommunikatives Testen und Prüfen im Bereich Deutsch als Fremdsprache Gerhild Kronberger Seit
Herbst 1994 gibt es das Österreichische Sprachdiplom Deutsch (ÖSD),
ein mehrstufiges Prüfungssystem für Deutsch als Fremdsprache, das sich
sowohl inhaltlich als auch in seinen Durchführungsbestimmungen an
internationalen Rahmenrichtlinien und Niveaubeschreibungen orientiert
(wie z.B. Gemeinsamer Europäischer Referenzrahmen etc.).
Zurzeit werden 8 verschiedene Prüfungen an über 200 lizenzierten
Prüfungszentren in über 30 Ländern durchgeführt.
3.〈世俗化〉をめぐるドイツでの議論 宮城 保之 ドイツ語圏では近年〈世俗化(Säkularisierung)〉という観点から近代の成り立ちが問われている。つまり西洋の近代とはキリスト教からの解放によって生じたのであり,また一方でそのキリスト教からの影響によってその後も規定されると共に正当化されてきたとする見解だ。その論者はF・ゴーガルテンのような神学者のみならず,独文学者G・カイザー,思想史家H・ブルーメンベルク,歴史哲学者H・リュッベ,社会学者N・ルーマンにおよび,個別学問領域を超えて考察の対象となっている。この数年で世俗化という主題に関する書籍もドイツでは矢継ぎ早に出版されている。宗教的テロリズム,生命倫理,多民族共生などの問題もあってか,宗教的伝統と現世との関係を問うことへの関心が高まっているといってよいだろう。
4.神経と言語 ─シュレーバーと世紀転換期における身体 熊谷 哲哉 ダニエル・パウル・シュレーバー(1842~1911)は『ある神経病者の回想録』(1903)において,独自の宗教的世界を構築した。『回想録』の中心となるのは,シュレーバーが神との断ち切り難い交流関係に陥り,それが世界の崩壊につながるという予感である。シュレーバーと神との交流は,彼が「神経言語」と呼ぶ形態でおこなわれる。神経が言語を聞き取り,人間のあらゆる記憶を保持するとシュレーバーはいう。彼はなぜ,神経が言語の器官であると考えたのだろうか。
5.上演と展示を媒介する記憶 ─演劇博物館からへ─ 長谷川 悦朗 ドイツ語圏には演劇博物館及びそれに準ずる機関・施設が広範囲に散在している。名称にTheatermuseumという単語を含むものは五館のみであるが,展示空間を併置している公立劇場や,記録資料を集積している大学演劇学科・音楽学科も合わせると相当数に達する。演劇やオペラや舞踊などの舞台上演は一時的一回的事象であるから,演劇博物館の収蔵・展示物は,美術作品のような完成形態ではなく,舞台上演という完成形態からの遺物に過ぎない。それゆえ演劇博物館の展示には,劇場文化の歴史を具象的に現前化することによって観覧者を啓蒙する補足的,副次的機能が付与される。この展示にはしかし,観覧者が過去の舞台上演を脳内で再構築する因子として二つの要素が欠落している。一方は俳優や歌手や踊り手らの身体であり,他方は上演が実現した舞台を含む劇場空間である。それでも特定の劇場空間は,演劇博物館という範疇の拡大解釈を通じてこの限界を超克できる可能性を内包している。ドイツ語圏には一七世紀から一八世紀にかけて宮廷劇場として使用された歴史的価値が認知されるバロック劇場が保存されており,幾つかは往時の舞台上演を紹介する展示空間を併設しているばかりでなく,復元上演を主眼とした「」の舞台として毎年一定の時季に再活用されている。歴史的劇場建築を舞台とした復元上演としての記念祝祭では,同じ上演についての過去の集団的記憶が想起される契機として狭義の演劇博物館の範疇が超越されるのである。
ポスター発表(10:00~13:00) F会場
学びをかえりみる契機 ─学生によるオンライン教材の作成─ 境 一三 21世紀の外国語教育を特徴づけるキーワードの一つに「生涯学習」がある。学習が学校教育の期間にとどまらないのは当然だが,その当然の事実が国民の寿命の延びとともに強く意識されるようになってきた。しかし,生涯にわたって学習を行うためには,学習者自身が教員の指導や誘導なしに学習することのできる自律的学習者にならなければならない。そのためには,学校では「事柄」を学ぶだけでは不十分で,学びを意識し,学ぶためのストラテジーやテクニックを学ぶ必要がある。「学びを学ぶことLernenlernen」がクローズアップされてきた所以である。こうした自律的学習者をドイツ語教育の場で養成するために発表者が行っている活動の一つが,東京外国語大学での「情報コミュニケーション技術(ICT)とドイツ語学習」という授業である。この授業では,ドイツ語を専攻する学生が,ドイツ語の学習とは何か,またその学習にコンピューターやインターネットといったICTがいかに活用可能かという問題について議論している。それは,自らの外国語学習をかえりみ意識することによって,より良い学習者になるための契機を提供するものであり,学生による教材作りもその一環である。学生はさまざまな外国語学習法・教育法を学んだ後,自分たちの理想とするドイツ語オンライン教材を作成している。今回の発表では,授業の概要を示すと同時に学生の作った教材を展示することにより,こうした問題領域に関する議論の素材を提供したいと考えている。
記譜し得ないものとは何か ─アドルノ音楽論再考 伊藤 壯 アドルノの音楽論においては,新ウィーン楽派を明らかにその極致的なモデルとする所謂自律的な音楽が回りくどく顕揚される一方で,文化産業としての大衆音楽(ジャズ・映画音楽など)は戯画的に矮小化された上で断罪されるという図式が一貫して明確に打ち出されているように見えるし,またそれがアドルノの基本姿勢であると総じて受け止められてはいる。ただし,その決然たる態度表明の陰となってともすれば見落とされがちな微細な議論の交錯こそが積極的に読まれるべきであろうし,例えば,社会的事実と自律芸術,あるいはミメーシスとラチオの入り組んだ関係性を軸に読み返すとするのならば,そこにアドルノの音楽作品やジャンルに対するスタンスの揺らぎが透かし見られることこそがとりわけ意義深いと言えよう。そしてそれを定かにするための一助として,まず便宜的にアドルノの業績を前期・中期・後期と分かった上で,それぞれの時期の間に判然とする差異について検証したい。
Von der Fehleranalyse zur Erklärung: Fehlerbehandlung Gabriela Schmidt Untersuchungen
der Fehleranalyse haben gezeigt, dass eine direkte Korrektur eines
Fehlers kaum zu einer „Besserung“ beim Lernenden führt. Wenn man beim
nächsten Test erfolgreicher abschneiden möchte, muss man es aber besser
machen, d. h. aus seinen Fehlern lernen und genauere Informationen
bekommen. Deshalb ist es wichtig, die Fehler auch im Unterricht für
alle Lernenden methodisch zu behandeln. Dazu gehören, 1.) eine
sorgfältige Analyse des Fehlers (Datenerhebung und Korpus erstellen),
2.) eine genaue deskriptive linguistische Beschreibung des Kontextes,
3.) eine Didaktisierung, die dem Stand der Lernenden angemessen ist und
schließlich 4.) die Erklärung selbst, wobei auch auf die direkte
Umgebung im Klassenzimmer, z. B. auf das Tafelbild zu achten ist. |